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下松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ

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下松市の石造文化財・祈りと生活 (10、石碑(せきひ) (七星降臨(しちせいこうりん)) (金輪神社(かなわじんじゃ)))

10、石碑(せきひ) (七星降臨(しちせいこうりん)) (金輪神社(かなわじんじゃ)) 下松駅を降り,、北口から数十歩のところに金輪神社がある。,ひとびとは社を建てこの星をまつった。これが金輪神社である。 / 10、石碑(せきひ) (七星降臨(しちせいこうりん)) (金輪神社(かなわじんじゃ))
下松市史異説 ((四))

この金輪神社について『寺社由来』寛保元年(一七四一)原田市正上申には、かのうの宮・壱けん四方の小社有之先年明見社御,金輪神社への降臨の一件は、収録されておらず、したがって文献上明治以降の創作と断定せざるをえない。,蓋し金輪社に降臨伝説が江戸時代既に実在しておれば、神社の由来の根幹だけに、当然上申収録されているはずである,文献の次に金輪神社(降臨の松)附近の干拓年代について考察しよう。  ,写真田圃中右寄りの小社が金輪神社 (大正十年頃・相本高義氏提供)  星が降った場所が明確であることは
観光と産業 下松市 (観光と産業 下松市 目次)

観光と産業 下松市 目次 くだまつ金輪神社(鼎の松)花いっぱい瀬戸内海国立公園 笠戸島はなぐり岬笠戸,の夕映笠戸島と宮の洲鼻多宝塔花岡福徳稲荷社絵馬[口絵]
下松市の民話・伝説と民謡 (3 かなえの松 (下松地区))

下松発祥(はっしょう)の伝統を秘めた七星降臨の松といわれ、その木の下に、降臨(こうりん)の星を祭ったという金輪社
下松の観光と商工業 (下松の観光と商工業 目次)

市内の觀光地 笠戸島 白濱 金輪松,妙見社 宮の洲,東洋鋼鈑株式會社下松工場 笠戸船渠株式會社笠戸工場,日本石油株式會社下松製油所 山陽工業株式會社,德山酸素工業株式會社 兵庫ボルト株式會社
下松市史異説 ((七))

又金輪神社と降臨の関係については、下松地方史研究会長の橘正先生も御心配の一件である。
下松市史 通史編 (下松地方における妙見信仰のはじまり)

説話のモチーフは、十五世紀にはじめて構想されたにしても、かかる伝説を生み出し伝承しえたのは、それなりの社会的,市内北斗町(下松駅の北方)の金輪神社境内に一本の松がある。,上宮・中宮・若宮(吉原)が座し、社坊の一つ、閼伽井(あかい)坊は鷲頭寺と号した。,一八七〇年(明治三)、社名を降松神社と改め、七九年神仏分離で西豊井、中市に移動した。
下松のいろいろの歴史 (3 下松地名考)

説があり、『風土注進案』末武下村の条にも   下松と申は往昔青柳浦と申候由、古松三本有之、一本を金輪松,と申、一本を怒龍松と申シ、又一本を鼎松と申候、右之内ニ金輪松は妙見星此松え天降在しより降松と浦名を申伝,明治の初め神仏分離が行われ、徳山藩史によれば、明治三年九月七日妙見社号成とあって、妙見社は降松神社と改,この降松神社の字には特にクタマツと振仮名がつけられている。,ことに『町内目安』は、町の長さ・道幅・戸数・人口・職業・租税・社寺等詳しく記している。
わたしたちのきょうど 星ふるまち下松 ((1)残したいもの伝えたいもの)

その松の木の子孫が、「鼎(かなえ)の松」として、金輪(かなわ)神社に残されています。
文献史にかいまみる妙見さま (第一章 妙見社の縁起)

ここでとりあげる妙見社の社寺伝には三種類の記録が残されている。  ,社寺伝には三点の大きな相違がある。, ⑱塩田村 神護寺 『石城山由来書』   縁起伝書  抑当山は人王第二綏靖天皇即位五年初春日金輪際,妙見宮の社殿の草創について  「桓武天皇、延暦十四年(七九五)己亥(つちのとい)、勅願によりて社殿を,云々」(妙見社伝旧記)  「神宮寺白木山(中略)往古より社僧十五坊の第一として、上宮経始以来の宮司坊 / 第一章 妙見社の縁起
下松市史異説 ((一八) 石碑)

通称亀石・同多宝塔重脩碑の他孝女満佐(公集小学校入口)・花岡御茶屋跡春雨桜・閼伽井坊前弘鴻(ひろひろし)・金輪神社,その中では、降松神社宮司原田重庸の碑(門下生百余人が明治二十五年建立)や周防第一の苑・中宮公園記念碑(
下松のいろいろの歴史 (1 地名から見た昔の下松)

最近は金生(かなふ)神社・金輪(かなわ)神社といわれている。,これは金生、金輪といい金が生まれ商売繁盛の神として祭られているようである。  ,下松の紀元についても下松妙見社縁起と妙見社古記・下松妙見社伝承の説があるが、下松妙見社縁起には  ,奥地の山田村に蓮台寺、生野屋村に妙見社若宮、来巻村に嶽妙見社、成川の妙見社が建ったのは、鷲頭氏が武力と,なお、鷲頭山妙見之縁起・妙見社縁起は神職により著され、妙見社古記・妙見社伝承は僧侶によって著されている
下松市の石造文化財・祈りと生活 (下松市の石造文化財 祈りと生活 目次  付、下松市内の指定文化財)

よねがわみょうおんじ)) … 43 五、石鳥居(いしとりい)について … 45  1 鳥居 (降松神社(,いしとうろう)について … 61  1 燈籠   (花岡八幡宮) … 62  2 常夜燈  (西市 貴布祢社(,)) (久保 西蓮寺(くぼさいれんじ)) … 103 10 石碑(七星降臨(しちせいこうりん)) (金輪神社,稲虫明神(いなむしみょうじん) (東開作鶴ヶ浜(ひがしがいさくつるがはま)) … 106  2 猿田彦社(,119 十三、度参碑(どさんひ)について … 120  1 お百度札(ひゃくどふだ) (大海町 後野社(
妙見さま (妙見宮鷲頭寺年中行事)

平和日本(ヘいわにほん)の妙見宮(みょうけんぐう)     下松小唄   (1) 星が降った 金輪,の社よ   七日七夜さ 光って飛んで   松はときわの 色かへぬ   今は昔の  夢のあと    
下松のいろいろの歴史 (8 旧豊井村の地名の研究)

「天之御中主神御伝下松妙見社縁記」によれば、金輪神社の社名は上繩よりつけられたものと言い、中繩は土井筋,いずれも開作に関係しているが、金輪神社も開作守護神として勧請されたものではあるまいか。,この豊井の水は、昔の宮の洲の招魂社のそばにあったという。,山口における大内氏は祇園社を〓り、大内家第一の守護神と崇敬した由『周防国山口祇園社旧記』に記されているが,、鷲頭氏と祇園社尊崇の事績を考えるとき、中豊井・殿ケ浴の天王社との関係も興味のあることである。
下松のいろいろの歴史 (3 天王森古墳 お屋敷山史蹟)

ニ有リ   但由緒等之儀ハ同村泉所寺より可被申出候事 一 地蔵 東光寺と云所ニ有之   『寺社由来,こうして尊星降臨の伝説が、金輪神社とともに市内に二ケ所あることは興味ある課題であろう。  ,城山は本丸であり、只今の護国神社の地が二の丸に当たり城主は平時には城下に住していたと思われる。,○山添招魂社と護国神社  城山の中腹に、山添招魂社(山添は地名)がある。,藩によって招魂社が建立されたのは、都濃郡ではこの山添招魂社だけである。
文献史にかいまみる妙見さま (第二章 日本における天皇と北辰祭祀)

交野(かたの)には、妙見山があり、⑯星田神社(龍降院)という妙見尊降臨の霊場が残っている。  ,設け、護摩を焚いて妙見を供養する修法であり、北斗法は、曼荼羅を中心部に妙見の代わりに、仏眼または一字金輪,⑫北辰妙見菩薩経  ⑬懐風藻 奈良時代ノ漢詩集、淡海三船撰天平勝宝三年(751)成立  ⑭星田神社(,妙見山・龍降院)・密教占星法・神社名鑑・続日本紀  ⑮鄭玄(ていげん)(127~200)中国後漢の経学者, 毛詩箋 周禮、儀禮、禮記の注(後漢書)  ⑯密教占星法上編 森田龍僊著 P409・神社名鑑・神社本庁
下松のいろいろの歴史 (5 下松の水軍)

『鷲頭山旧記』によれば、北辰尊星は現在の金輪神社のところに降臨し、ついで桂木山(宮洲山)に祀り、ついで,尊星を祀る社が、桂木山・高鹿垣山・鷲頭山と次第に高地に祭神を移したことは、鷲頭氏の勢力範囲が次第に拡大,その後、毛利氏は次第に勢を得て防長を席巻し、弘治二年(一五五六)四月十九日降松妙見社の営も陥り、下松は,即ち宮前社宅の辺りで造船していたと思われる。,(1)現在の鋼飯会社の辺りを古河といい河が流れていた。
下松のいろいろの歴史 (6 下松災異誌)

往時の社寺は、人々の参集する唯一の場所であったため、火災の起る機会が多く、市内においても多数の社寺が火災,下松の町には荒神社、西市に鎮火白菊稲荷、久保市に由加社、花岡に稲荷大明神があって、いずれも火災から人々,久保市の由加神社については、社記によれば   火災除祈願のため、天保九年(一八三八)戊戌創立す。,本社は火除の神として、備前田の口、由加本社より、光格天皇文化二年(一八〇五)乙丑六月二十二日熊毛郡呼坂,金輪神社の横を流れていた川、あの辺りの「古川町」という地名、「新川」の名、「中戸原」、切戸川の「戸」の
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