関東取締出役と改革組合村

 関東農村における貨幣経済の浸透は、18世紀末以降、博奕の横行をはじめとした百姓風俗の乱れをもたらしました。また幕府領・藩領・旗本領などが錯綜し、支配構造が複雑化していた関東地方では、支配を越えた取締りが困難な点もその一因でした。そのため、文化2(1805)年に支配領域を越えて取締り活動が出来る関東取締出役が設置されます。しかし人員不足や費用負担の増加が問題となり、文政10(1827)年、数十か村ごとに改革組合村が設置されます。関東取締出役は、改革組合村内の交通の要衝となる村(寄場)を中心に廻村して教諭を行い、治安維持にあたりました。

史料
組合村々取締方議定連印書付組合村々取締方議定連印書付関東取締出役の人員不足と村にかかる治安維持費用の負担は大きな問題でした。この費用負担の軽減化を図るため、近隣数十か村を改革組合村に設定し、悪党取締りに関する諸経費負担方法や博奕禁止、風俗奢侈(しゃし)の取締りなど40箇条が、関東取締出役から直接村むらに教諭されました。