学校と学び

 明治5(1872)年、“各村から無学の家をなくし、各家から無学の人をなくすことをめざす”とうたった「学制」が公布され、各村に一校を目安に初等教育機関(現在の小学校)が設けられます。「〇〇学舎」から「○○学校」、さらには「○○尋常高等小学校」と名称や仕組みを変えながら、近代公教育の場として、地域に根ざしていきます。地域の人びとにより支えられ、担われた学校は、国家の将来を担う人材を輩出するという要請をも引き受けていました。

史料
石阪公歴宛賞状(有隣学校への寄附につき)石阪公歴宛賞状(有隣学校への寄附につき)石阪昌孝の長男公歴が、上小山田村の有隣学校へ1円を寄付したことを賞して神奈川県権令野村靖から授与されました。当時の公歴は満9歳になるかどうかの子どもでした。権令は感謝ではなく、“奇特の儀につき誉め置く”としています。
養英館学科課程表養英館学科課程表養英館のカリキュラム表です。下等6級から上等1級まで、読法、作文、習字、算術、修身、地理、歴史の7学科の内容が記されています。当時の公立校が下等8級・上等6級制なのに対し、養英館では下等6級・上等8級制をとっていました。
小野郷学碑の建碑記念盃小野郷学碑の建碑記念盃小野郷学(おのきょうがく)の閉校から36年、郷学校をしのぶ建碑がなされ、記念の盃がつくられました。盃には小島慎斎(守政)の七言絶句が記されています。残念ながら建てられたはずの石碑は見つかっていません。
『修身いろは訓』『修身いろは訓』1890(明治23)年末から91年にかけて教育勅語の謄本が各小学校に配布され、勅語奉読式が行われました。かつて学区取締を務めた若林有信は、勅語の配布を喜び、この小冊子を編集・発行し、小山田学校の全生徒に配布したとされています。
青木家銅版画青木家銅版画相原村の民権家、青木正太郎の屋敷の銅版画です。母屋と左右2つずつの蔵は、現在も1つずつ残されています。右側の奥には青木勘次郎(正太郎の父)が校主となって設立した「養英館」があり、校庭にはその旗がひるがえっています。
小野郷学の扁額小野郷学の扁額明治3(1870)年11月、神奈川県は郷学校整備の方針を打ち出します。翌年2月、小野郷学は、県の意向を受けて野津田・小野路・下小山田・図師を巡回して開講、10~60代の人が漢学・儒教道徳などを中心に学びました。同校は、明治5年の学制によりその役割を終えます。
大谷学校大谷学校1873(明治6)年、大谷村の「旧習字所」に開校した真敬学舎は、大谷学校と改称して1875年に大谷村の天神社境内に校舎を新築しました。茅葺屋根のこの校舎は、1903(明治36)年に町田尋常高等小学校に統合されるまで使用されました。
研精学校の初等第四級卒業証書研精学校の初等第四級卒業証書慶福寺跡地にあった研精学校に通った斎藤サダの卒業証書です。当時は等級修得ごとに卒業証書が授与されました。同校は三輪と能ヶ谷の2つの村の学校として開校しましたが、その後能ヶ谷学校の開校により三輪村の小学校となりました。
養英館の小学初等全科卒業証書養英館の小学初等全科卒業証書養英館の初等全課程を修了した青木正太郎の妹、リウの卒業証書です。「初等」は課程表の「下等」のことでしょう。養英館は私立学校ですが、証書には「大日本帝国」、「神奈川県」の印刷が見えます。
成瀬学校の開校式成瀬学校の開校式成瀬、高ヶ坂の2つの村により運営されていた成高学校は、東雲寺の火災で教場を失います。それをきっかけに両村は個々に学校を再建、1880(明治13)年に成瀬学校が開校しました。10年後の1890年になってはじめて開校式を催しました。
高ヶ坂学校の扁額高ヶ坂学校の扁額「高阪学校」と書かれています。成高学校が分離して開校した高ヶ坂学校ですが、小学校令下の学校としては不認可の状況が続き、1901(明治34)年にようやく認可、正式開校されました。この扁額は、そのころのものでしょうか。
紙製石盤紙製石盤明治前期の小学校における授業では、石盤という石製の携帯用黒板と石筆と呼ばれる蝋石が使用されました。石盤では、石製の代替品として軽量で安価な紙製のものも使われました。
紙製石盤紙製石盤