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〔井深梶之助伝道日記〕明治十九年〔群馬・長野〕
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1886(明治19)年におこなわれた信越地方への伝道の記録です。当時の欧化政策を背景に日本のキリスト教はめざましい発展を遂げつつあり、地方への伝道が急務となっていました。井深梶之助はこの年創立された明治学院の夏季休暇を利用して、長野各地および群馬、埼玉を巡回し、説教をおこないます。
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2026.5.12
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〔井深梶之助伝道日記〕明治十九年〔広島〕
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1886(明治19)年12月23日から翌年1月20日にかけておこなわれた広島、山口などへの伝道の記録です。植村正久が同道しました。当時の地方信者の熱気が伝わってきます。なお、帰路、井深梶之助は京都同志社に立ち寄り、新島襄などに会って組合教会との合同について意見交換をおこなっています。
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2026.5.12
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〔井深梶之助伝道日記〕明治二十一年
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1888(明治21)年におこなわれた北海道、東北地方各地への伝道の記録です。8月18日、上野を発った井深梶之助は、仙台で押川方義や本多庸一に会い、その後、函館、室蘭、苫小牧、札幌等を巡廻し、各地で説教をしています。帰路には青森や盛岡を訪れています。旅程の記述や末尾の旅費記録からは当時の地方旅行の具体的な様相が浮かび上がります。
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2026.5.12
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〔井深梶之助日記〕明治二十三年
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1890(明治23)年8月、井深梶之助は横浜を出港し米国に向かいます。本書はその際の日記で、船上での毎日と余暇、到着地サンフランシスコの様子などが書き留められています。井深にとってははじめての海外旅行でした。
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2026.5.12
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〔井深梶之助日記〕明治二十四年〔英文〕
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サンフランシスコに上陸後、井深梶之助はニューヨークに向かいユニオン神学校で学びますが、その合間を見て米国東部を中心に各地を見学し、多くのキリスト教界関係者と出会います。井深にとってこの経験は一生の宝物となりました。本書はその記録の一部で、1891年7月から9月までがおさめられています。
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2026.5.12
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〔井深梶之助伝道日記〕明治二十八年
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1895(明治28)年の伝道日記です。内容は二部に分かれ、ひとつは5月9日より20日までのもの。大阪と高知で教友に会って旧交を温め、夜には演説講演をおこないます。ふたつめは、茨城、栃木、群馬への伝道記録。貴山幸次郎が同行し、各地で講演をおこないますが、聴衆には妨害者が混じっており、キリスト教に対する当時の国民感情の一端がうかがわれます。
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2026.5.12
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〔井深梶之助日記〕明治二十九年
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1896(明治29)年の日記です。元旦の回礼から年末の正月準備まで、井深梶之助と家族、関係者の日常が記録されています。井深は明治学院の総理としてキリスト教主義教育に取り組むかたわら求められて各地の教会で説教をおこない、クリスチャンの代表として各種の儀式、儀礼においても重要な役割を果たしていることがわかります。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕明治三十年
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1897(明治30)年の日記です。日本語日記と英語日記に分かれます。井深梶之助の日常はあいかわらず多忙を極めますが、この年、特筆すべきは1月のモット(Mott,John Raieigh)との出会いでしょう。英語日記箇所は米国ノースフィールドにおける世界学生キリスト教連盟への出席記録です。これらの経験を通して、井深は日本のキリスト教を世界につなぐ役割をになうこととなります。
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2026.5.12
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〔井深梶之助日記〕明治三十一年
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1898(明治31)年の日記です。3月21日深更、妻勢喜子が病没します。井深梶之助は病床で妻のさいごをみとりますが、その模様を記した19日から20日にかけての日記記事は勢喜子のキリスト教信仰の深さを綴って、明治期井深日記中の白眉といってよいでしょう。愛妻没後も井深の多忙な日常は続き、校務と伝道に明け暮れます。
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2026.5.12
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〔井深梶之助日記〕明治三十二年
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1899(明治32)年の日記です。8月、文部省訓令第十二号が発布されます。ことの重大さをじゅうぶんに認識する井深梶之助は、学内で熟議をかさねることはもちろんのこと、青山や同志社等の代表者とも協議して陳情書をまとめ、文部大臣や総理大臣に面談陳情するなど中心的な働きをしました。井深のタフネゴシエーターぶりが日記からも伝わります。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕明治三十三年
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1900(明治33)年の日記です。1月、井深梶之助は大島花と再婚します。これ以降、花は井深の後半生のよき同伴者として彼を支えるのみならず、キリスト教界の女性リーダーの一人としてもおおきな功績を残すこととなります。この年もまた井深は、学院生の徴兵猶予や外国教師教員免許をめぐって文部省と交渉するなど、学院とキリスト教界を牽引します。
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2026.5.13
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〔井深梶之助日記〕明治三十四年
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1901(明治34)年の日記は、1月1日から1月7日までの記事を残すのみです。
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2026.5.12
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〔井深梶之助日記〕明治三十五年
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1902(明治35)年の日記は、1月1日から2月5日までの記事を残すのみです。わずか1ヶ月の記事からでも、井深梶之助の多忙ぶりは相変わらずであることがわかります。
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2026.5.12
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〔井深梶之助伝道日記〕明治三十六年
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本書には、1903(明治36)年および1904(明治37)年における説教講話の記録がおさめられています。東京近辺での説教題と会場名が列挙されますが、それにくわえて、1903年7月20日から9月初旬にかけての台湾訪問の記事があり、また1904年8月の名古屋、大阪、広島および九州各地、四国各地での戦傷病兵慰問伝道の詳細が記録されています。
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2026.5.12
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井深先生関係資料(第七冊)明治三十八年外遊英文日記
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本稿は1905(明治38)年3月から翌年2月にかけて井深梶之助が基督教青年会を代表して同盟大会出席を主目的として欧米を訪れた際の記録です。日記原本が残存しないために、菊田貞雄教授が書写したノートを底本として翻刻し、日本語訳を付載しました。会議記録以外にも老境のヘボン(Hepburn,James Curtis)との再会(8/25)など興味深い内容がふくまれています。
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2026.5.12
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満韓視察紀行(〔井深梶之助伝道日記〕明治三十九年より)
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本書は1906(明治39)年から1908(明治41)年にかけての旅行記録です。具体的には1906年8月から9月にかけての満州朝鮮訪問、1908年11,12月の韓国京城訪問のほか、同年7月の会津帰省、8月の唐津夏期学校参加等の記録がおさめられています。とくに朝鮮、満州への紀行は当時の日本と東アジアとの関係を知る上で興味深い内容です。
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2026.5.12
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帰郷日記(〔井深梶之助伝道日記〕明治三十九年より)
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本書は1906(明治39)年から1908(明治41)年にかけての旅行記録です。具体的には1906年8月から9月にかけての満州朝鮮訪問、1908年11,12月の韓国京城訪問のほか、同年7月の会津帰省、8月の唐津夏期学校参加等の記録がおさめられています。とくに朝鮮、満州への紀行は当時の日本と東アジアとの関係を知る上で興味深い内容です。
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2026.5.12
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唐津夏期学校往復記(〔井深梶之助伝道日記〕明治三十九年より)
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本書は1906(明治39)年から1908(明治41)年にかけての旅行記録です。具体的には1906年8月から9月にかけての満州朝鮮訪問、1908年11,12月の韓国京城訪問のほか、同年7月の会津帰省、8月の唐津夏期学校参加等の記録がおさめられています。とくに朝鮮、満州への紀行は当時の日本と東アジアとの関係を知る上で興味深い内容です。
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2026.5.12
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勢州山田出張記(〔井深梶之助伝道日記〕明治三十九年より)
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本書は1906(明治39)年から1908(明治41)年にかけての旅行記録です。具体的には1906年8月から9月にかけての満州朝鮮訪問、1908年11,12月の韓国京城訪問のほか、同年7月の会津帰省、8月の唐津夏期学校参加等の記録がおさめられています。とくに朝鮮、満州への紀行は当時の日本と東アジアとの関係を知る上で興味深い内容です。
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2026.5.12
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韓国京城基督教青年会落成献堂式参列ノ為メ出張(〔井深梶之助伝道日記〕明治三十九年より)
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本書は1906(明治39)年から1908(明治41)年にかけての旅行記録です。具体的には1906年8月から9月にかけての満州朝鮮訪問、1908年11,12月の韓国京城訪問のほか、同年7月の会津帰省、8月の唐津夏期学校参加等の記録がおさめられています。とくに朝鮮、満州への紀行は当時の日本と東アジアとの関係を知る上で興味深い内容です。
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2026.5.12
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〔井深梶之助日記〕明治四十年
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1907(明治40)年の日記は、1月1日から2月8日までの記事を残すのみです。1月26日から同30日までの箇所はモット(Mott,John Raieigh)等と面談の記録で、英文で書かれています。
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2026.5.12
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〔井深梶之助日記〕明治四十二年
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1909(明治42)年の日記です。この年は宣教開始50周年に相当するとして、各種の催事がおこなわれましたが、井深梶之助は日本キリスト教界の中心的人物としてこれらの催事のなかで来歴を振り返る演説、説教を担当しました。3月の伝道開始五十年祝謝会、7月に開かれた基督教夏期学校、10月の日本基督教会第二十三回大会、宣教開始五十年記念会などが主たるものです。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕明治四十三年
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1910(明治43)年の日記です。この年5月、井深梶之助は英国で開催されるエディンバラ宣教会議に出席しました。旅程は神戸より大連に向かい、旅順、奉天を経てハルビンからシベリア鉄道を利用して、モスクワ、ベルリン、ロンドン等を見学するというものでした。会議においては数回の講演を担当し、日本代表として重要な働きをしました。
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2026.5.12
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〔井深梶之助日記〕明治四十四年
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1911(明治44)年の日記です。9月21日、明治学院ヘボン館が焼失しました。奇しくも同日朝、ニューヨークの自宅でヘボン逝去との知らせが届き、学院関係者は驚きをもってヘボンの功績を追懐しました。井深も処々でヘボンに関する講話等をおこないます。またこの年秋には日本基督教会同盟が組成されますが、これが後年の日本基督教連盟の前身となります。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕大正二年
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1913(大正2)年の日記です。この年5月~8月、井深梶之助は米国で開催される世界学生基督教青年会およびスイスで開催される世界日曜学校大会に出席します。おりしも米国では排日運動が発生しており、井深はウイルソン大統領や国務大臣に面会して陳情する機会を得ました。日曜学校大会においては副議長に選ばれるなど、彼の声名は国際的にも高まります
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕大正三年
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1914(大正3)年の日記です。4月、井深梶之助は朝鮮青年大会に出席します。同地では寺内朝鮮総督に面会して、尹致昊らの恩赦を働きかけます。また国内では、キリスト教学校の合同をめざして精力的に活動しますが、青山学院等からは色よい返事は得られませんでした。その他、日記には学院のサンダム館出火の顛末がくわしく書かれています。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕大正四年
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1915(大正4)年の日記です。この年も井深梶之助は朝鮮の尹致昊等赦免についてねばりづよい活動を続け、ついに特赦の措置を獲得します。また、11月、井深は永年の教育上の功労により瑞宝章勲五等を授与されることになります。諸種の会議への出席や地方への伝道旅行も重なり、あいかわらず多忙な毎日を送ります。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕大正五年
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1916(大正5)年の日記です。この年も多忙な毎日を過ごすなか、ふと自身の老いを感じた井深ははじめて遺書をしたためます(1月5日)。そんな井深に弟彦三郎が北京で急逝した旨の悲報がとどきます。彼は事後処理につとめ、とくに遺児井深八重のために心を砕きます。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕大正六年
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1917(大正6)年の日記です。この年、明治学院は創立40周年をむかえ、井深梶之助は学院の第二代総理として経営手腕を発揮します。3月には閉校する東京学院の生徒を受け入れ、5月には築地の所有地を売却するなど学院の発展、整備に尽力しました。12月には校地取得の契約が成立直後に先方の違約で破談になるようなこともありました。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕大正七年
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1918(大正7)年の日記です。5月、母八代子が病没します。日記にもそのときのさまが克明に記録されています。いったんこじれた学院の所有地売却、代替地取得の問題は8月以降に解決にむかいます。11月1日に開催された理事会において、井深ははじめて理事の職を離れます。日記には「多少ノ感慨ナキ能ハズ」としながらも「組織一進歩」と記しています。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕大正八年
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1919(大正8)年の日記です。5月、弟彦三郎の遺児八重に「重大事件」発生の一報が入ります(23日)。これが井深八重ハンセン病誤診一件の発端です。井深梶之助は親族の先頭に立って事態の収拾を図ろうとします。日記には八重の神山復生病院入院前後の顛末が詳細に記されており、そこには従来知られていなかったことがらも含まれています。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕大正九年
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1920(大正9)年の日記です。1月1日からはじまって9月28日で終わっています。4月30日、井深梶之助は都留仙次、山本秀煌らを自宅に招き、総理辞職の意向を告げます。そして5月5日に理事会に辞表を提出。井深の人生における大きな曲がり角だといえます。9月には日本で開催される日曜学校世界大会に中国からの参加を促すべく渡航します。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕大正十年
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1921(大正10)年の日記は1月1日から3月11日までの記事を残すのみです。この間の出来事としては、1月10日に熊野雄七の訃報に接します。この年、日曜学校世界大会が日本で開催されますが、日記記録はありません。多忙をきわめて日記を中止していたようです。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕大正十一年
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1922(大正11)年の日記は3月23日からの朝鮮、中国歴訪の記録です。ただし断片的な記事が多く、まとまった内容とはなっていません。
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2026.5.13
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〔井深梶之助日記〕大正十三年
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1924(大正13)年の日記です。日曜学校世界大会(1921年)の激務から脳溢血を発症し静養していた井深梶之助は、この年の元旦から日記の再開を決意します。3月3日、井深は田川大吉郎から神学部長および教授職勇退の勧告を受け、辞職を表明します。ほかにこの年の大きな関心事は明治学院と東京神学社との合同問題でした。日記は9月23日の発熱以降、12月7日まで中断があります。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕大正十四年
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1925(大正14)年の日記です。1月9日、井深梶之助は植村正久急逝の一報に驚愕します。日記末尾の補遺欄には同人の死を悼む文章が残されています。6月、井深は汎太平洋問題協議会に出席するため横浜を出港、ハワイに向かいます。これには井深花子も同行しました。この会議への出席は井深にあらたな活躍の場を提供するものでした。
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2026.5.16
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〔井深梶之助日記〕大正十五年
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1926(大正15・昭和元)年の日記です。明治学院専任職退任後の井深梶之助の日常において、おおきな心の支えとなったのが書道の世界です。彼は秋葉省像に書を習い、この年の3月には知人に揮毫したものを提供するまでになります。12月、井深はラジオ放送によるクリスマスメッセージを依頼され、準備していましたが、天皇の崩御により中止となります。
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2026.5.16
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