明治3年(1870)2月、新政府は「大学規則」「中小学規則」を達し、各府県に小学校を設置するように求めた。これを受けた東京府は6月に、6校の「小学」を設立することを伺い出た。このうち「仮小学第一校」が、芝の増上寺中の源流院に置かれた。鞆絵(ともえ)小学校の起源である。幕府の菩提寺であった増上寺は倒幕を経て困窮する中で、新政府に次々と土地建物を提供していた。広間のある寺院は教育用途に適していたため、提供されたと見られる。同時に開かれた他の「小学」もすべてが寺院であった。この「仮小学第一校」は、明治4年9月に文部省直轄になるべく申し出がなされた。文部省には「学制」に先立って標準的な学則を試したいという意図があった。この学校は、明治政府によって規定された日本で最初の公的な小学校といわれている。
[図2―2]に示したのが、仮小学の規則である。私たちの「小学」のイメージからは大きくかけ離れているのではないだろうか。取り扱われている教材は中国伝来の儒学書や歴史書である。これらの書物の句読(読み方)、解読(理解)、講究(考察)が求められる。寺子屋というよりは漢籍を扱う私塾(漢学塾)の様相を呈している。これに加えて算術、語学(外国語)、地理学が課された。さらには「大学規則」で想定されている「大学」で教えるべきものとされた学術(現在で言うところの医学、理学、法学、文学、哲学倫理学の5科)の基礎を学ぶべきだとされた。示された教育内容は、あくまで想定上の「大学」の入学準備としての内容であった。庶民が寺子屋に求めたような手習いから段階的に積み上げていく学習内容ではなかった。