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日本における近代的な学校制度は明治5年(1872)の学制の発令によって初めて実現されました。これに先立ち明治3年(1870)3月、東京府は六つの「仮小学」を定め、6月にはその六つの小学校が正式に開校しました。その1番目である「仮小学第一校」が、芝増上寺中の源流院に設置された、後の鞆絵小学校です。
鞆絵小学校は、多くの卒業生を輩出しましたが、平成3年(1991)3月に桜田小学校・桜小学校と統合されて御成門小学校となり、120年余の歴史に幕を閉じることになりました。多くの卒業生を育ててきた校舎は、現在はもうありませんが、この地で行われてきた教育は、今なお人々の心に残されています。なお「仮小学第一校」の跡地は「旧跡 日本近代初等教育発祥の地」として港区指定文化財となっています。
映像では、120年の鞆絵小学校の歴史を、港区教育センターに保存されていた資料や、世代ごとの卒業生有志による座談会、関係者へのインタビューを通して浮かび上がらせます。
鞆絵小学校を卒業した「三浦環」「大江スミ」の資料を公開しています。
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卒業生が描き残したかつての校舎や町並みの絵図は、当時の学校や地域の様子を知る上で、受け継いでいきたい貴重な財産です。
鞆絵小学校(当時の鞆絵尋常小学校)では、大正12年(1923)の関東大震災で焼失した正門を、その前年に卒業生が描いています。その卒業生が『鞆絵小学校百年史』に綴った文章には、「徳川300年の歴史の跡を思い出させるに充分な、典型的な、大名長屋門であった」「寒い冬の朝、この校門の扉が、大きく二つに開かれるのを、震えながら待った」とあり、絵図はもちろん、文章からも今日とは異なる小学校の姿を感じることができます。
大正14年(1925)3月、NHK の前身である東京放送局(JOAK)によって日本で最初のラジオ放送が行われたのは、芝浦の東京高等工芸学校内の仮スタジオでした。同年7月、江戸時代以来の眺望の名所である愛宕山に本放送局が移転し、愛宕山でのラジオ放送が始動しました。これ以降、愛宕山はラジオ放送のおひざ元となり、ラジオを利用した活動が地域に根づいていきます。
その活動の代表とも言えるのが、昭和初期に始まったラジオ体操です。初代担当である江木理一アナウンサーと数人の若者が参加したことをきっかけに、「愛宕山ラジオ体操会」が誕生し、愛宕山神社にはたくさんの人が集まりました。
残されている写真には、愛宕山のすぐ近くにあった鞆絵小学校でもラジオ体操が行われていた様子が写っています。これらの資料からは、学校でも地域でも大勢の人が一同に集まってラジオ体操をしていたことがわかります。また同校が発行した『ともえ読本』を読むと、ラジオ体操が戦争を挟んで50年以上も熱心に続けられていたこと、からだだけではなくこころにも関わる運動であったことなどが分かり、ラジオ体操が子どもたちの教育にとって大きな影響を与えていたことをうかがい知ることができます。
東京タワーは、昭和33年(1958)に電波塔として港区に誕生しました。
飯倉小学校は東京タワーの近くにあり、塔が学校の誇りでもありました。同校の昭和34年(1959)3月の80周年記念誌には、「階段をふうふういいながらのぼって来る人」が楽しみと、東京タワーの目線で書いた児童の作文が残っています。東京タワーを背景にした運動会の写真や職員写真も掲載され、ある教員は「近代科学の偉大さ人智の素晴らしさには文字通り日進月歩の感を深くする」と述べています。
また、高松中学校の生徒は、東京タワーへ見学に行ったときの様子を「オモチャのような自動車、マッチ棒のような人を、目の下いや世界一の東京タワーから見おろせるという事はこれ一つの幸福といっていいような事でないかとさえしみじみと思われたほどかんげきしたのであった」(原文そのまま)と記しています。
当時の人々は、東京タワーを大きな驚きとともに迎えていました。
「忠臣蔵」でおなじみの赤穂義士とは、江戸時代中期に、主君浅野長矩(あさのながのり)の仇討ちをした家臣たちのことです。港区は、高輪地区に泉岳寺があり、赤穂義士ゆかりの地です。また、高松中学校は、細川家の下屋敷があった場所で、赤穂義士のうちの17人が身柄をあずけられていました。
泉岳寺には、今も長矩のお墓があります。赤穂義士が仇討ちのときに、殺害した吉良義央(きらよしなか)の首を長矩の墓前へささげたことで有名です。彼らは切腹して亡くなったあと、亡君の遺志を継いで吉良を殺し、浅野家の名誉を回復したと称えられました。
赤穂義士は、戦前の子どもたちへも影響しました。赤穂義士にちなみ「高輪義士会」という男子の剣道の会がつくられたり、昭和3年(1928)の御大典(ごたいてん)(天皇が即位する儀式の総称)奉祝記念で、高輪地区の児童が義士の仮装行列を行ったりしていました。