疎開生活は一般的に貧しかったが、教職員は児童の給食に気を配り、食料調達のために東奔西走した
(本巻第10章参照)。児童も、自分たちの食と生活のため薪運びなどで働いたことを、麻布小学校卒業生が回顧している。
食べ物がなくなっていき、先生方が毎日農家をまわり調達してくれました。学校から帰ると山に行き、百合の根っこや野蒜(のびる)、トウモロコシの茎などを採って食べました。お風呂の水を汲みに山を2、3回往復しました。冬は籠をしょって焚火の燃料となる杉の葉を集めに行きました(3)。
保護者も疎開先の子どもたちの食料調達に努めた。高輪台小学校の教育奉仕会は、「疎開児童のためにさけ缶詰―疎開児童に配給された範囲内で幾個でも、古雑誌―教育上差支えないものであれば一、二冊程度、右二品を九月十九日迄に高輪台国民学校に(中略)お届けください」と依頼した。[図6―9]は、それらを送る際に使用した包装紙と思われるが、古紙を張り合わせて作られており、保護者の日用品も不足していたことを物語っている。
[図6-8] 疎開地で給食記録
「八月二十三日、朝 茄子味噌汁 昼 じゃが芋煮付 夜 干瓢入味付飯」など、几帳面に記されている(昭和19年)。
出典:神明小学校『神明小疎開記録 昭和拾九年度以降食物記録』
[図6-9] 古紙を貼り合わせて作られた包装紙
日用品も不足する中、保護者は疎開児童に物資を送ったり、差し入れをしたりした。
高輪台小学校所蔵
関連資料:【通史編5巻】4章9節2項 食糧不足の深刻化
関連資料:【通史編5巻】4章9節2項 食糧等物資の補給への協力
関連資料:【見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ~】戦争・学童疎開