見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ~ > 区民とあゆむ学びの歴史 > ゆかりの著名人
●下記のをクリックすると、記事に関連した資料一覧をご覧になれます。
●資料一覧から資料画像をクリックすると、すべての画像を見ることができます。
「乃木坂」「乃木神社」にその名を残す陸軍大将の乃木希典(のぎまれすけ)。彼の2人の息子、勝典(かつすけ)・保典(やすすけ)は麻布小学校(当時の麻布尋常小学校)に通っていました。同校の『あざぶ 開校140周年記念誌』(2015)によると、2人の卒業後、希典の意志で「乃木体育奨励賞」という体育奨励章が設けられました。
年を経るに従って、受賞の対象は変わっていくようですが、当初の受賞者は、春季身体検査の結果、同性同一年齢の子どもの中から優秀である者・前年度に比べて発達が顕著な者・体操科の成績が優秀だった者・大運動会で学級選手として優勝した者でした。麻布小学校には昭和14年度までの受賞者の記録が残されています。明治19年(1886)の小学校令に基づく「小学校ノ学科及其程度」で体操科が必修となり、兵式体操が制度的に確立するなど軍事教育が発展していく時代状況にあって、乃木をはじめとする軍部の影響が学校にも大きく及んでいたことが想像できる史料になっています。
長い伝統をもつ鞆絵小学校の卒業生には、多くの著名人がいます。「蝶々夫人」で一躍有名となった世界的なソプラノ歌手、三浦環(みうらたまき)もその1人です。
環が鞆絵小学校(当時の鞆絵尋常小学校)に入学したのは明治22年(1889)。この頃から優れた歌唱を評価されており、同校では君が代や校歌を環が最初に1人で歌い、その後に児童全員で合唱するなど柔軟に対応しました。環はそのような指導を「子供の時から独唱をする様に鞆絵学校で私を教育して下さった」と振り返り、「一人々々(ひとりひとり 原文のまま)の特長をのばしてやる」教育のおかげでソプラノ歌手として大成することができたと鞆絵同窓会の会報(第11号、1943年)に寄せています。
卒業後、ソプラノ歌手として名声を得た環は、同窓会で歌声を披露したり、会報に寄稿したり、第28代アメリカ大統領のトーマス・ウッドロウ・ウィルソンから贈られたと言われているオルガンを寄贈したりと、母校に貢献し続けました。
三浦環が卒業した旧鞆絵小学校のあゆみの映像はこちら
「家政学の母」として知られ、大正期に日本の女子教育に尽力した大江スミ(おおえすみ)は、明治13年(1880)、鞆絵小学校(当時の鞆絵尋常小学校)に入学しました。長崎に生まれたスミは、父が奉公していたグラバー商会(長崎県の観光名所「グラバー園」で有名なトーマス・ブレーク・グラバーが設立した商社)の倒産により一家で上京し、芝公園の近くで暮らしていました。貧しい生活の中、母カネは「何処までも学問をさせて、将来自活のできるようにしてやらねば」という思いからスミを東洋英和女学校に進学させます。
卒業後は教師となり、その働きが認められたスミは、明治35年(1902)に文部省から命を受け、家政学研究のためイギリスへ留学しました。当時のイギリスの家政学は家事の実用的知識が中心でしたが、衛生学など他の学問にも触れる中で、家庭生活の質を高めることで社会生活をも豊かにする学問であるとの考えを確立しました。また、留学中にヨーロッパ諸国を旅してまわったスミは、各国の女性たちの活躍・女子の養育を目の当たりにし、女子教育の重要性と家政学が果たすべき課題を認識していったのです。
帰国後スミは、家政学の確立のため、また自身の経験や知見を後につづく若い女性たちに伝えるため、家政研究所(現在の東京家政学院大学)を創設するなど、家政学の確立に全力を注いだのです。
大江スミが卒業した旧鞆絵小学校のあゆみの映像はこちら
勝海舟は、江戸時代末期に、海軍の礎(いしずえ)を築いたほか、西郷隆盛と会談して江戸城の無血開城に貢献するなど、明治維新を陰(かげ)から支えた人物です。明治5年(1872)、50歳のときに氷川町4番地(現在の赤坂6丁目)に引っ越してきました。勝家のあった場所は、後に旧氷川小学校(当時の氷川尋常小学校)が建てられた場所でもあります。勝家が昭和5年(1930)に土地を譲(ゆず)り、学校が建てられたのです。校庭の中ほどに家が、校長室のあたりに勝海舟の居間があったと記録されています。このような縁から、小学校と勝家は交流を行うようになりました。
昭和10年(1935)、旧氷川小学校では『海舟先生と氷川小学校』という冊子をまとめています。そこには、勝海舟の2月11日の誕生日を「海舟記念日」として行事を催すこと、校歌に海舟の名前を入れること、郷土教材に功績を加えることなどが綴(つづ)られています。氷川小学校では、戦前の教育において、勝海舟は「東京の恩人」であり、「日本海軍の建設者」としての国民的偉人と捉(とら)えられていました。戦後も、勝海舟の曾孫(ひまご)と座談会を行ったほか、小学校創立50年記念誌でもその人物像についてまとめています。氷川地域で、非常に親しまれた人物です。