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港区/デジタル版 港区のあゆみ

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図説 港区の歴史 (二・二六事件に出動)

二・二六事件に出動 東京市連合防護団は、昭和8年(1933)関東防空演習を手始めに毎年の防空演習に参加,して訓練を重ねてきましたが、「東京非常変災要務規約」による初出動が「空襲」ではなく「二・二六事件」(図,年2月26日   図6-13-4 高橋是清翁記念公園(上)と高橋是清翁像(下) 二・,二六事件の現場となった高橋是清邸は遺族によって土地建物ともに東京市に寄付され公園となった。,赤坂区では表町一・二丁目、伝馬町一・二丁目、田町一~七丁目、福吉町、溜池町、新町一~五丁目の住民1万2,800 / 二・二六事件に出動
図説 港区の歴史 (第13節 二・二六事件と防護団)

第13節 二・二六事件と防護団 昭和11年(1936)2月26日早朝、「尊皇討奸(とうかん)」「昭和維新,二・二六事件です。 / 第13節 二・二六事件と防護団
新修港区史 ((3) 港区内における二・二六事件)

(3) 港区内における二・二六事件 【二・二六事件】 第二次世界大戦のもとにおける港区を語るうえで、,ぜひとものべておかなければならぬのは、昭和十一年の二月二十六日に起こった青年将校の決起事件、いわゆる二,・二六事件である。  ,この時、昭和十一年二月二十六日、いわゆる二・二六事件がおき、青年将校の決起によって、東京市内は重大な危機 / (3) 港区内における二・二六事件
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (二・二六事件)

二・二六事件 第一次世界大戦後の長引く不況に加えて、関東大震災による震災恐慌、昭和二年(一九二七)の,昭和一一年二月二〇日に第一師団の満州移駐が命ぜられると、皇道派青年将校たちは、二六日未明に部下にあたる,翌二八日午前五時に伝達された。,さらに、二八日夜には武力による鎮圧と決起部隊を「反乱部隊」とすることが決定され、翌二九日午前八時三〇分,なお、二・二六事件においては、港区域とその周辺は事件の主要な舞台となった。 / 二・二六事件
図説 港区の歴史 (自治防護団から官製警防団へ)

はその備忘録に「避難区域ニ特ニ報告ヲ要スルカ如キ不安、故障等殆ントナカリキ」(松本清張・藤井康栄編『二・,二六事件=研究資料』)と記していますが、2万人近い住民を短時間にトラブルなく避難させた防護団の鮮やかな
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (公的施設・文化施設)

(高輪二丁目)が注目される。,一九)、同二年に取り壊された(後者はファサードのみ意匠を継承予定)。  ,また軍の街としての顔を戦後もわずかに伝え、二・二六事件の現場としても知られていた旧陸軍歩兵第一連隊本部,文化施設としては、大倉集古館(国登録有形文化財、虎ノ門二丁目)がある。,築地本願寺(中央区築地)などのエキゾチックな建築で知られる伊東忠太設計による中国風建築は、昭和二年(一九二七
港区史 第5巻 通史編 近代 下 ([口絵])

下はラジオ放送の仕組み図 口絵7 「歩兵第三連隊全覧」(昭和6年〈1931〉) 口絵8 二・,二六事件時の歩兵第一連隊営門 東京都江戸東京博物館所蔵 撮影 同盟通信社 口絵9 飯倉国民学校疎開児童
新修港区史 (深まる総力戦への影)

深まる総力戦への影 二・二六事件後、こうした事件は一応終息したとはいえ、むしろ右旋回の色は一層濃厚になっていった,十二年には、七月に芦溝橋事件が起こり、八月から上海戦、十一月には日独伊防共協定の締結、十二月には南京陥落
図説 港区の歴史 (参考文献)

都史資料集成6 関東大震災と救護活動』 東京都公文書館編 2012『都史資料集成12 東京都防衛局の二九二,日本電気株式会社 1972『日本電気株式会社七十年史 明治32年-昭和44年』 松本清張・藤井康栄編 1976『二・,二六事件=研究資料』文藝春秋 松山恵 2017「東京の首都計画」『みる・よむ・あるく 東京の歴史3 
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (2コラムB 二三区唯一の米軍基地と撤廃運動)

港区には、二三区内では唯一となる米軍基地が、二か所、存在している。,「サンノー」の由来は、二・二六事件の舞台ともなった赤坂の山王ホテル。 / 2コラムB 二三区唯一の米軍基地と撤廃運動
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (戦間期の産業化進展、社会運動と警察機能の拡大、特高警察)

、社会運動と警察機能の拡大、特高警察 本項では、第一次世界大戦が終結した大正七年(一九一八)から第二次世界大戦,が勃発する昭和一四年(一九三九)までの約二〇年間における日本警察の歴史的展開と、港区域における治安維持機構,特別高等警察(特高警察)が担当したが、ロシア革命を機に左翼運動取り締まりが強化され、大正一四年(一九二五,昭和七年(一九三二)の政党内閣に反発する海軍急進派などによる五・一五事件を契機に、特高警察は従来手薄となっていた,右翼運動取り締まりを強化したが、その対応には限界があり昭和一一年の二・二六事件で陸軍皇道派青年将校らが
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (第二項 警察)

なお、警視庁管下の各警察署は、芝愛宕警察署が愛宕警察署へ改称されたように、昭和一二年(一九三七)八月二八日,二・二六事件後の昭和一一年七月には、特別高等課が左派勢力を担当する特高第一課と、右派勢力を担当する特高第二課,港区域はまた、昭和一一年の二・二六事件の舞台にもなっている。,二二日、警視庁の警官隊が実力行使に踏み切ると、摺建らは手榴弾を投げ合い自決した。,また、同年二月一九日に赤坂区の青山警察署長官舎が、五月二五日に麻布区の本庁付属監察官舎が、翌二六日に芝区 / 第二項 警察
図説 港区の歴史 (ラジオを通じて市民に呼びかける)

占拠部隊との間に武力衝突の危険が高まってきた29日午前6時30分、戒厳司令部はラジオを通じて市民に対し「本二十九日麹町区南部附近,通じて、時々刻々、リアルタイムで情報を流し、市民の冷静な対応を呼びかける現在の報道スタイルの原形が、二・,二六事件にあったといえるかもしれません。
図説 港区の歴史 (関東大震災と空襲)

帝都東京を護る自治組織が初めて出動したのは昭和11年(1936)の二・二六事件においてです。  
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (日中戦争と第三連隊)

日中戦争と第三連隊 二・二六事件後、上級部隊である第一師団が関東軍隷下となり、東京からチチハルに移駐,日中戦争の勃発に伴い、昭和一二年(一九三七)七月二九日、第三連隊は中国戦線への応急派兵を命ぜられ、翌三,二〇日から二七日にかけての戦闘で張家口を占領すると、同地の防衛のために二七日以降、連隊の主力が駐屯した,その後、二三日まで大同に駐留したが、二四日に大同を守備する第三大隊と速射砲中隊を残して第一・第二大隊は,に第一大隊が、翌二二日に第二大隊と速射砲中隊が、さらに二三日には第三大隊がチチハルに帰還して、歩兵第三連隊
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (戦間期の港区の治安状況)

大工場の労働者、港湾施設で働く土工や沖人夫、朝鮮系住民など人口増加が著しく犯罪も増加しており、海岸通二丁目,昭和七年(一九三二)の五・一五事件では、立憲政友会総裁の犬養毅総理大臣らが暗殺されたが、国際協調、立憲政治擁護,海軍中尉古賀清志ら軍人決死隊・第二班は、高輪の泉岳寺に集合した後、芝区三田台町の牧野内大臣官邸を襲撃したが,、警戒中の芝三田警察署員が負傷しつつも彼らの屋内侵入を阻止した(警視庁史編さん委員会編 一九六二)。,昭和一一年(一九三六)の二・二六事件では、陸軍皇道派の拠点と目された赤坂区青山南町の第一師団の満州派遣決定
図説 港区の歴史 (図説 港区の歴史 目次)

198   11  関東大震災  202   12  震災復興とまちの変化  206   13  二・,二六事件と防護団  210   14  東京大空襲と隣組防空群  214 コラム  〈調べる〉歴史的建造物
新修港区史 ((1) 盛り場繁栄――新橋・赤坂・麻布十番)

料理店多く裏小路にともるネオンサインや巷に流れるジャズの響きにさそわれてくる人も少くない……   新橋二丁目,しく竝び、江戸前の鮨を美味しく喰べさせる「新富鮨」もこの一角に、新橋駅には西洋料理店「精養軒」があり、二番地,十六番地に新橋三業組合の検番があり、鳥料理「末げん」(二四番地)、割烹料理「古今亭」(四〇番地)等の大旗亭,ネオンサインで満艦飾の軍艦を模した三階建の館内に約二百名に垂んとする女給群を擁し、ここは浮き立つような,満州国独立、五・一五事件、昭和十一年の二・二六事件からさらには日中戦争へと時局は大きくゆれ動いていたが
赤坂区史 ([目次])

[目次] 第一章 總記 第十章 衞生 第二章 住民 第十一章 交通 第三章 政治 第十二章 通信 第四章,第一章 總 記   第一節 序     説       一、位置・面積・地勢  1     二、, 明 治 初 年       一、明 治 二 年  167     二、明 治 五 年  173    ,二六事件とわが區  923 第十章 衞  生   第一節 上 水 道       一、江 戸 ,時 代  925     二、明 治 以 降  940   第二節 下  水  道      
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (図版一覧)

東京放送局大電力放送記念(昭和3年)  口絵7  「歩兵第三連隊全覧」(昭和6年)  口絵8  二・,二六事件時の歩兵第一連隊営門  口絵9  飯倉国民学校疎開児童の日記  口絵10  豊川稲荷より赤坂見附,名称、位置、管轄区域  表4-6-2-3  港区域の犯罪件数比較  図4-6-3-1  高輪消防署二本榎出張所
新修港区史 ((二) 公園・児童遊園)

【区内公園の現状】 港区内には昭和五十二年三月現在、九一ヵ所、約七二万平方メートルの公園・準公園・児童遊園,内訳は、区立公園二九、児童遊園五五、都立公園四、海上公園二、国民公園その他都市公園に準ずるもの一で、面積比,はそれぞれ三二・六%、四・五%、四三・九%、一・四%、二七・六%となっている。,また、港区民一人当たりの占める公園面積は、三・四二平方メートルで、千代田区二九・三〇、渋谷区六・一一、,昭和十六年開園の高橋是清翁記念公園は、昭和十一年のいわゆる二・二六事件の際、反乱軍におそわれて暗殺された / (二) 公園・児童遊園
図説 港区の歴史 (歴史年表)

文久元年 1861 5月28日 第一次東禅寺事件が起こる   文久2年 1862 5月29日 第二次東禅寺事件,肢体不自由児のための「東京市立光明学校」が開校する   昭和11年 1936 2月26日 二・,二六事件が起こり、高橋是清らが殺害される   昭和12年 1937 7月7日  
麻布区史 ([目次])

第七編 史蹟名勝天然紀念物 第一編 麻布區の地理學的考察 第一章 總説 第一章 概説 第一章 史蹟 第二編, 麻布區の考古學的考察 第二章 區制 第二章 東部方面 第二章 天然紀念物 第一章 序説 第三章 區會, 明治十七年以後の區會 487         區町村會法改正―區町村會規則―學區會―十七年より二十二年迄,二六事件負傷巡査へ見舞金―出征將士感謝状―各大臣への激勵文―漢口陥落祝賀―養護學園廢止の諭戰―英國打倒,麻布水道―東京市改良水道       第三節 下水道 683         江戸時代の下水道―二十二年
新修港区史 (新修港区史 目次)

………………………………………………………………………二七   (二) 古代の生物………………………,…………一二二  第四節 南北朝時代の武蔵国と港区………………………………………………………一二四,の危機と労働運動    広大な軍用地    港区内における二・二六事件    太平洋戦争   ,  (二) 民間労組も企業連組織へ………………………………………………………一二六五  第二節 全国組織,…………………………………………………………………一二九三   (二) 「全闘」の結成と二・一ストの
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