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港区/デジタル版 港区のあゆみ

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新修港区史 ((三) 引き揚げ列車の駅・品川)

そのひとつ品川駅は、敗戦直後の日本の風景を奏でる象徴的な顔でもあった。,【敗戦のドラマ―引揚げ】 敗戦時、六六〇万人いた海外からの〝引き揚げ〟者の多くが、ここ品川駅八番ホーム,品川駅八番ホームは、今日もわが子を、父を、夫を、兄を迎える人の波で活気づいている。,や引揚者の接待に努めているが、九月六日までに品川駅頭に迎えた当区関係引揚者は五六名にのぼった。,品川駅頭の引き揚げ者風景 【引揚げ者の収容施設】 ところで、これら復員兵および引き揚げ者の都内を
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (高輪地区)

図7-5-2-7 幽霊坂(三田4丁目)の中腹にある玉鳳寺(正面)と仙翁寺(左) 品川駅周辺のホテル群,港区に関連した地域では、東京都心・臨海地域、品川駅・田町駅周辺地域が指定された。,その後、令和二年に「品川駅・田町駅周辺まちづくりガイドライン二〇二〇」が改定されている。,【品川駅、高輪ゲートウェイ駅周辺】 品川駅周辺は、令和二年にJR新駅として高輪ゲートウェイ駅が開業した,また、京急線品川駅の地平化および輸送力の向上を図り、品川駅の複雑な乗り換え動線の解消や移動距離の短縮など
新修港区史 ((一〇) 春闘大衆化を背景に進められた「安保闘争」)

【品川駅構内の出庫阻止戦術】 港区における安保闘争そのものの過程での盛り上がりは、六月四日と同二十二日,の品川駅構内で出現した状況だったといってよい。,とりわけ、東京都内における焦点は品川駅の出庫阻止闘争に集中していた。  ,「田町電車区は山手線品川駅と田町駅前の品川寄りにある。,品川駅一番ホームはずれの山手線電車の前に支援労組員もまじえ固い表情でピケ隊もいささか拍子抜けの表情。
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (鉄道の発展)

鉄道の発展 明治五年(一八七二)に新橋―横浜間に日本で初めての鉄道が開通し、港区域内には新橋駅と品川駅,品川駅は、当初海岸付近に設けられたものの駅拡張工事によって明治二九年(一八九六)に現在の場所に移転され,新橋・品川駅の混雑解消と、市街地の発展から港区域内には、新橋・品川の中間駅として浜松町・田町駅が明治四二年,大正元年度の乗車人員数は、新橋駅約二六〇万人、品川駅約一二〇万人、浜松町駅約一七万人、田町駅約四三万人
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (貨物集散地としての汐留)

港区域は汐留駅と品川駅が貨物駅として機能し東海道線沿線や関西、近畿からの貨物集散の役割を担っていた。,汐留は東京市中心部との関わりが強いことがうかがえる一方で、品川は港区域や品川駅周辺に特化していたことが,(高柳友彦)   表3-4-3-1 汐留駅・品川駅の貨物仕出・仕向地 鉄道省運輸局編
図説 港区の歴史 (第6節 新橋停車場)

をはや我汽車は離れたり」のフレーズは、明治33年(1900)に発売された『鉄道唱歌』の最初の歌い出しで、品川駅
港区史 自然編 (1)低地の地形)

3.1m、芝4丁目交差点付近では3.5m、札の辻交差点付近の芝5丁目では4.3m、三田3丁目では4.2m、品川駅北方,芝4丁目交差点付近から品川駅前にかけては、第一京浜が微高地の上を通るためである。  ,高輪台地の麓は旧海岸線が迫り、品川駅付近で砂州の幅は非常に狭くなる。  
新修港区史 ((2) 高架鉄道と烏森駅等の新設)

【田町駅と浜松町駅】 田町駅・浜松町駅は明治四十二年十二月新橋―品川駅間の中間駅として新設され、その両駅乗降客,なお、品川駅は、当初は現地よりもやや南方、八ツ山の下の海浜近くにあったが、明治二十九年、ほぼ現在のところに
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (芝浦・港南周辺)

このような取組の中、平成八年に品川駅東西自由通路の工事が開始された(図 7-4-3-1。,図 7-4-3-1 品川駅構内東西自由通路新設工事の計画平面図 品川駅構内東西自由通路新設工事パンフレット
港区史 第7巻 通史編 現代 中 ([口絵])

木通り(令和5年) 口絵8 高輪町栄会商店街(昭和56年) 高輪地区の街並み 口絵9 品川駅付近
新修港区史 ((1) 鉄道の開通)

宿場に依存する人々は生活の危機感から反対をとなえ、品川駅もこのため宿場内につくれず、高輪に設置したのである,品川駅はその意味で、わが国最初の鉄道開通の記念すべき駅であったといえよう。,また、明治天皇は新橋駅開通式にさきだって、明治五年七月十二日、野毛山下駅より品川駅まで乗車しており、これが
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (麻布の変化――武家地から住宅地へ)

明治三九年には市街電車が開通した(品川駅前~天現寺~青山一丁目の区間、後の都電第七系統・品川駅前~四谷三丁目
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (31:港南(一〜五丁目))

一九九〇年代から品川駅東口の開発が行われ、超高層の大型複合ビルである品川インターシティフロントが平成一,平成一五年には品川駅が新幹線の停車駅となったことで企業の進出がさらに進み、急速にビジネス街として発展を
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (第二項 景観と環境美化)

さらに、平成二七年の計画改定で、外濠周辺、品川駅・新駅(現在の高輪ゲートウェイ駅)周辺の二地区が加わった,、旧芝離宮恩賜庭園、増上寺のような歴史・文化資源や、青山通りのような道路沿いの街並み、六本木交差点、品川駅周辺
港区史 第8巻 通史編 現代 下 (第一五章 港区の文化発信と国際性)

現在も、区内の交通の便利さ(羽田空港、新幹線品川駅とのアクセスの良さ)、都内最多のホテル客室数、マスメディア・
新修港区史 ((六) 港区の交通機関)

降車人員 一日平均 総 数 定 期 乗車人員 降車人員 国 鉄 新橋駅 浜松町駅 田町駅 品川駅,京浜急行・品川駅の人員は昭和53年4月の数値である。  ,昭和五十二年度の各駅の降車人員についてみると、国鉄新橋駅の六、九七五万二、二三〇人を筆頭にして京浜急行品川駅,の六、〇八六万八、八六〇人がこれに次ぎ、続いで国鉄品川駅の五、〇九一万七、五〇〇人、国鉄田町駅の三、七九六万,国鉄品川駅付近
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (芝浦港南地区)

また、平成一五年には東海道新幹線が品川駅に停車するようになった。,公共交通ネットワークの整備と交通結節点の利便性を向上させるために、広域的な交通結節拠点となる品川駅周辺,また、新たに改札が整備される品川駅北口については、広域交通を担う交通結節機能を配置し、駅前広場の整備を,耐震護岸の整備改修に合わせて運河沿いの遊歩道の連続化を進め、歩行者ネットワークの構築を図るとともに、品川駅
図説 港区の歴史 (市街地)

博)   図1-3-14 区役所の屋上緑化   図1-3-15 品川駅港南口
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (鉄道時代の幕開け)

品川駅は港区域にあり、当時の横浜駅は現在の桜木町駅である。,ところで、鉄道が敷設されるときはどこでも反対運動が起きるものであるが、品川駅が品川宿ではなく現在の港区内
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (区内交通の発展)

港区域では、品川駅や目黒駅を起点に芝園橋を経由し東京駅を結ぶ路線や、麻布材木町から日比谷を経由して水天宮前
港区史 自然編 (2)埋め立ての変遷)

大正6年(1917)測図の2万5千分の1地形図では、現在の芝浦2~4丁目まで埋立地が拡大し、品川駅の東側
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (第四項 居住環境の向上)

ルールの制定と合わせて、平成一七年までの三か年を試行期間として、新橋駅、品川駅など乗降客数の多い区内の
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (26:高輪(一〜四丁目))

また、品川駅周辺は一九九〇年代から東口地区の開発が進み、高輪口(西口)は比較的に昔ながらの雰囲気を保ったままであったが
新修港区史 ((五) 港区と東京港の役割)

(五) 港区と東京港の役割 港区にあっては、新橋駅から品川駅に至る東海道線を境として、海側の平地は工業地帯
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (図版一覧)

) 口絵7  赤坂一ツ木通り(令和5年) 口絵8  高輪町栄会商店街(昭和56年) 口絵9  品川駅付近,-1-1  東京都下における旧軍用地ならびに旧軍用建物調査(1948年9月現在) 図7-2-1  品川駅前,-5  昭和63年時の緑の確保目標 表7-4-2-2  港区の緑被率の推移 図7-4-3-1  品川駅構内東西自由通路新設工事,図7-5-2-8  環状第4号線全体図(上)と拡大図(下) 図7-5-2-9  都市再生特別地区(品川駅北周辺地区
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (そのほかの「聖蹟」および史蹟)

『芝区誌』では、有馬別邸趾(高輪四丁目)、増上寺、品川駅、新橋駅趾(東新橋一丁目)、毛利元徳邸(高輪四丁目
図説 港区の歴史 (連隊の動向と軍事施設の戦後)

(白石弘之) 図6-10-6 満州(中国東北部)移駐のため麻布狸穴通りを品川駅に向けて行進する歩兵第一連隊
図説 港区の歴史 (コラム〈調べる〉歴史的建造物でめぐる港区の近代史)

品川駅から港区の南半域をたどってみましょう。  ,品川駅の高輪側に、グランドプリンスホテル高輪の宴会施設として使われている貴賓館(旧竹田宮邸洋館、①)があります
港区史 第8巻 通史編 現代 下 (大使館等との連携)

のお祭りを写真で紹介―」を実施し、一〇月五日〜一八日に東京ミッドタウン、一〇月二〇日〜一一月九日にJR品川駅中央改札内,国際文化紹介展示(平成28年度〜令和2年度) 図 15-2-1-3 令和2年度国際文化紹介展示(JR品川駅中央改札内
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (第一〇章 港区の産業の発展)

また通勤者を客層にもつ新橋、田村町あるいは虎ノ門近辺には、これと異質の商店街が形成され、新橋駅と品川駅,特に、新橋駅から品川駅に至る東海道線のレールを境に、三田側の平地は、工業地帯および準工業地帯に指定され
新修港区史 ((2) 天皇東幸と天盃頂戴)

十月十三日、品川駅を出発し、芝増上寺で休憩、京橋・呉服橋をへて西の丸に入った。
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (日清戦争期までの警察機構の状況)

芝区では新橋駅や品川駅を中心に市街電車網が整備され、工場労働者を中心に人口が増加した。
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (復興から東京オリンピックの開催地へ)

(中村 仁) 図7-2-1 品川駅前を通る最後の都電(昭和42年)
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (第四項 観光に関する様々な取組)

これらへのアクセス手段も豊富であり、新幹線が停車する品川駅をはじめとした鉄道交通網、バス路線等交通の利便性
新修港区史 ((九) 高度経済成長下の春闘)

たとえば、昭和三十二年の品川駅構内への警察力介入を抗議集会をもって拒むなどの職場闘争が展開されたのもその
新修港区史 ((一一) 田町電車区の「ハダカ事件」)

昭和三十八年七月二日夕刻、ラッシュアワーの品川駅ホームでパンツ一枚ではだしのままの国鉄労働者を鉄道公安官
港区史 自然編 (ⅲ 港区における床上・床下浸水の発生状況)

なお、1993年には、台風11号の大雨によって都内各所で浸水が発生しており、JR品川駅や地下鉄赤坂見附駅
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (旧新橋停車場跡および高輪築堤跡)

JR旧田町車両センター跡地を中心としたおよそ一三ヘクタールの開発事業が動き出し、これと機を同じくした品川駅改良
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (道路・公共交通)

また、品川駅港南口などの駅前広場の整備や一ツ木通り等における景観等に配慮した道路の整備により、区全体としての
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (参考文献)

〇二〇 「東京都市計画道路 環状第2号線」 東日本旅客鉄道株式会社 二〇一八 「都市再生特別地区(品川駅北周辺地区
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (土地利用)

この地域の分断については、品川駅東西自由通路の必要性を示唆しているものと考えられる。,芝浦港南地区の中の汐留開発、古川河口南から重箱堀へのエリア、芝浦二~四丁目から港南三丁目へ広がるエリア、品川駅東口等
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (第三項 港区の産業の概観)

新橋駅から品川駅に至る平地は、京浜工業地帯の一翼として、工業地帯および準工業地帯があった。
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (第四項 新たな地域コミュニティの形成と進展)

二一)四月現在一四(芝、新橋、芝公園、愛宕、東麻布、麻布、六本木、赤坂、高輪、高輪台、白金台、芝浦、品川駅港南口
新修港区史 ((一) 上水道)

使用者名 所 在 使用量 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 新名糖 品川駅
港区史 第8巻 通史編 現代 下 (図版一覧)

1-2  令和2年度国際文化紹介展示チラシ 図15-2-1-3  令和2年度国際文化紹介展示(JR品川駅中央改札内
新修港区史 ((一) 官公労組、相次いで組織化)

汐留変電区分会(永塚清ほか一七名)、同月二十五日に品川車掌区分会(深川弘信ほか二〇〇名)、翌二十六日に品川駅分会
新修港区史 ((四) 生活を守る闘い)

って、九月二十七日、婦人会、青年会の人びとを中心に、新橋駅東口および西口、田町駅西口、浜松町駅付近、品川駅西口
新修港区史 ((三) 戦災)

】 次いで五月二十九日には朝から空襲がはじまり、わずかに残っていた芝区の高浜町・高輪南町などが焼失、品川駅
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (図版一覧)

昭和10年)  図3-4-2-3  各種工場分布(昭和9年10月)  表3-4-3-1  汐留駅・品川駅
新修港区史 (高輪一~四丁目)

北方の伊皿子貝塚と同様の条件下にあり、三・四丁目境の品川駅前道路拡幅のとき(大正末か)おびただしい貝層
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