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港区/デジタル版 港区のあゆみ

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図説 港区の歴史 (東禅寺)

東禅寺 安政5年(1858)に幕府が欧米5か国と結んだ修好通商条約によって、翌安政6年(1859)から,イギリスは総領事オールコック(1809~1897)を江戸に送り、高輪の東禅寺が総領事館(公館)に選ばれます,着任したオールコックは、「もし日本を流刑地だと考えるならば、(東禅寺よりも)美しい草庵(hermitage,)を選ぶことは不可能だったろうと認めざるをえない」(『大君の都』)と東禅寺を描写しています。,この記述からは東禅寺は小さい寺のように感じられますが、実際のところ、東禅寺は「草庵」ではさらさらありませんでした / 東禅寺
新修港区史 ((8) 東禅寺(高輪三丁目一六―一六))

(8) 東禅寺(高輪三丁目一六―一六) 【イギリス公使オールコック】 東禅寺は、慶長十五年(一六一〇,【東禅寺襲撃事件】 このイギリス仮公使館の東禅寺には二回にわたって攘夷派の浪人が乱入し、いわゆる東禅寺襲撃事件,オールコックが所用で帰国し、ニール代理公使が東禅寺にはいってまもなく、第一回目の浪士乱入一周忌の夜に寺,現在でも東禅寺には、玄関に弾痕が残っており、当時の模様を物語っている。  ,万延元年六月十七日(一八六〇年八月三日)ポルトガル使節ギマレースも、日葡修好通商条約を調印するさいに東禅寺 / (8) 東禅寺(高輪三丁目一六―一六)
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (公使館襲撃事件と公使の横浜転居)

文久元年五月二八日夜、イギリス公使館東禅寺は水戸浪士によって襲撃を受けた(東禅寺事件)。,オ-ルコックが東禅寺に帰着した翌日の二八日夜、有賀半弥、古川主馬之介(しゅめのすけ)ら水戸浪士一〇数名,(人数は史料によって異同がある)は東禅寺を襲撃し、イギリス側は公使館書記官のオリファントと長崎領事のモリソン,さらに翌文久二年五月二九日、東禅寺の警備にあたっていた松本藩士伊藤軍兵衛によって、同寺のイギリス兵が殺傷,される事件(第二次東禅寺事件)も発生する。
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (外国公館と地域)

仙次郎は東禅寺に隣接する下高輪村(現在の高輪三丁目)に住む造園職人で、東禅寺の植木の手入れをするために,八月九日、仙次郎は東禅寺の裏手、二本榎の酒屋三河屋で酒を三合二〇〇文で買い求めた。,しかし、この「事件」を受けて一〇月二五日、幕府は「英吉利西人宿寺高輪東禅寺境内江(え)一切酒売込申間敷,ハヽ(これありそうらはば)、吟味之上急度(きっと)可申付候」(『江戸町触集成』一八-一六六四一)と、東禅寺境内,とくに東禅寺周辺の町々は「最寄町々は猶更之義ニ付別而(べっして)心付候様」と、特に留意するよう厳命された
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (伝吉暗殺事件)

救助されてサンフランシスコ、香港、上海を経て、オ-ルコックの通訳として日本に戻り、東禅寺に勤務していた,一月七日、藤崎は伝吉が東禅寺に馬で乗り入れていくのを見かけた。,東禅寺の柵門内には男女が多く集まっている。,藤崎は東禅寺の裏通りから高輪屋敷の裏門へ駆け込み、屋敷詰肝煎(きもいり)方へ事件の顛末を話した(「万延元年薩藩士外国人殺傷一件書類,小普請組(無役の幕臣が所属)の四五人に加え、御三卿の清水家附より一五人、合計六〇人を江戸の三公館(善福寺・東禅寺
図説 港区の歴史 (外国公使を迎えた山門)

外国公使を迎えた山門 図5-19-1 東禅寺の山門 ベアト撮影、文久3年(1863)、長崎大学附属図書館所蔵,   外国人カメラマンによって撮影されたイギリス公館・東禅寺の立派な山門です。
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (大名による警備)

一一月二一日、幕府は、松平忠愛(たかちか)(肥前島原藩-善福寺)、阿部正教(まさのり)(備後福山藩-東禅寺,東禅寺の警備にあたった大和郡山藩柳沢家の家臣斎藤利端の記録(「出府被仰付(おおせつけられ)候ニ付出立ゟ,(より)帰国迄手扣」)によると、「高輪東禅寺江(え)参居候異人横浜江不残(のこらず)引取申候、右ニ付御固
港区史 第2巻 通史編 近世 上 (大名の江戸菩提寺)

特に東禅寺(臨済宗)は一四家、天徳寺(浄土宗)は一一家、泉岳寺(曹洞宗)は九家、青松寺(曹洞宗)も九家,このうち東禅寺・泉岳寺・青松寺と、金地院(臨済宗)、瑞聖寺(黄檗宗)は触頭寺院であり(本章二節四項参照
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (別手組の警備)

外国御用出役肝煎として東禅寺事件で活躍した天野岩次郎によれば、「私共の方ハ実は総体の護衛と申す訳で無い,の護衛といふ者でハ無い、五十人といふ組合の者は外国人が出行する時に護衛する役であつた」(「天野可春君東禅寺英国公使館争闘実歴談
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (外国公館の開設)

(ぜんぷくじ)(元麻布一丁目 図6-2-2-1)、イギリス総領事のラザフォ-ド・オ-ルコックは高輪の東禅寺,イギリスは先に見分した東禅寺を公館としてふさわしいと判断し、善福寺はイギリス公館の選から漏れたのである
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (外国人の遊興)

一方、東禅寺に近い品川宿でもイギリス人が騒動を起こしていた。,図6-2-2-2 東禅寺庭の幕府役人とイギリス人 横浜開港資料館所蔵
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (台場掛宿舎の位置とその選定)

冨川 二〇〇八~二〇一二〉)には、普請開始当時に台場掛の宿舎として使用された寺院として、高輪の如来寺、東禅寺,実際、『高松日記』によれば、高輪の東禅寺門前海岸に乗船場が三か所(白印船場・青印船場・赤印船場)設置されている,また、東禅寺には幕府の使節を迎える設備が整っていることから(竹村 二〇〇九、 六章二節参照)、高輪町や
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (公使の江戸再進出)

従来使用されていた東禅寺は、襲撃事件後に荒廃し公館としての利用が難しかったようである。  
図説 港区の歴史 (屋敷跡や社寺境内)

また、慶長8年(1603)創建の愛宕神社(図1-3-2)や寛永13年(1636)以降高輪にある東禅寺の
新修港区史 ((一) 外国公館が置かれた寺院等)

最初のアメリカ仮公使館となった旧麻布山元町の善福寺、同じくイギリス仮公使館にあてられた旧芝高輪の東禅寺
港区史 自然編 (3)芝から高輪へ(図1-ⅰ-5))

また、高輪警察署前から桂坂を下り、途中右折して洞坂(ほらざか)(写真1-ⅰ-8)を下ると東禅寺という大
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (台場掛の発足)

江戸掛は江戸に常駐して普請現場と幕閣を繋ぐ役、場所掛は台場掛の本部が設置された高輪の如来寺をはじめ、東禅寺
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (「公使館街」高輪・三田・麻布)

また、東禅寺には幕府の使節を迎えうる格式を持つ玄関・式台があり、その存在が外国公館として選ばれた理由であったという
港区史 自然編 (2)天然記念物など)

2)天然記念物など 前項で述べたように、高輪東禅寺のアカガシ林とシラカシ林および自然教育園のスダジイ
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (参考文献)

地域史研究 はこだて』三 近世史料研究会編 二〇〇二 『江戸町触集成』一八、塙書房 竹村到 二〇〇九 「東禅寺,の歴史的概略」港区教育委員会事務局図書・文化財課文化財係編『佛日山東禪寺 最初のイギリス公使館跡に係る,、坂田精一訳 一九六〇 『一外交官の見た明治維新』岩波書店 天野岩次郎口述 一九〇七 「天野可春君東禅寺英国公使館争闘実歴談
港区史 第2巻 通史編 近世 上 (寛永江戸全図)

その南東には、『江戸庄図』や「江戸図屛風」では麻布の丘陵地に描かれていた泉岳寺〈4-⑦〉や「霊南」(東禅寺,)〈4-⑧〉が移転してきていることも確認できる(東禅寺は寛永一三年〈一六三六〉、泉岳寺は同一八年〈一六四一
港区史 自然編 (1)潜在的な生物相)

の環境庁(平成13年に環境省に改組)の特定植物群落調査では、原生林もしくはそれに近い自然林として高輪東禅寺
港区史 第2巻 通史編 近世 上 (武州豊嶋郡江戸庄図)

広岳院(こうがくいん)(のちに移転)〈2-⑦〉、泉岳寺(せんがくじ)(同上)〈2-⑧〉、「れいなん」(東禅寺
港区史 第2巻 通史編 近世 上 (近世触頭寺院の成立)

臨済宗妙心寺派では東禅寺が慶長一五年(一六一〇)に溜池上に寺地を拝領したが(図1-1-1-2〈2-⑨〉
新修港区史 ((9) 長応寺(高輪二丁目―一))

東禅寺のイギリス仮公使館襲撃事件が発生した直後、幕府は同様な事件の発生をおそれて長応寺の警備を強化している
港区史 上 ([目次])

       (一) 米使公館(善福寺)―浪士の襲撃―ハリス記念碑        (二) 英使公館(西応寺、東禅寺,)―第一回東禅寺事件―第二回東禅寺事件―御殿山公館の焼打        (三) 仏使公館(真福寺、
港区史 第2巻 通史編 近世 上 (近世港区域の特色)

伊皿子・二本榎から高輪にかけての台地には泉岳寺や東禅寺などの寺院や武家屋敷が展開した。
港区史 自然編 (2)都市型自然環境)

後者の例が高輪東禅寺で、江戸初期から高輪の地にあり、幕末にはイギリスの公使館が置かれた。
新修港区史 ((一) 緑化)

明治記念館の樹林 根津美術館の裏山 衆議院議長公邸 愛宕神杜 明治学院大学 東大医科学研究所 東禅寺
図説 港区の歴史 (地域特性の成立)

善福寺のアメリカ公使館、東禅寺のイギリス公使館、済海寺のフランス公使館、西応寺のオランダ公使館などです
港区史 第8巻 通史編 現代 下 (大使館等との連携)

江戸時代末期、最初の外国公使館が善福寺(アメリカ)・東禅寺(イギリス)・済海寺(フランス)・西応寺(オランダ
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (図版一覧)

図6-2-1-1  幕末期外国公館関係地図 図6-2-2-1  善福寺 図6-2-2-2  東禅寺庭
図説 港区の歴史 (歴史年表)

橋付近でアメリカ公使通訳ヒュースケンが暗殺される   文久元年 1861 5月28日 第一次東禅寺事件,が起こる   文久2年 1862 5月29日 第二次東禅寺事件が起こる    
新修港区史 (高輪一~四丁目)

現二丁目六番)、高野山東京別院(明暦元年〔一六五五〕浅草から移転)、東禅寺(寛永十三年〔一六三六〕溜池
新修港区史 (赤坂一~九丁目)

嶺南庵は東禅寺と改称して寛永十三年(一六三六)に、泉岳寺は同十八年にそれぞれ高輪の現在地へ移った。
図説 港区の歴史 (図版一覧)

第三台場東南隅の石垣積みの様子 図5-18-5  内海三番御台場全図(上・下) 図5-19-1  東禅寺
麻布区史 ([目次])

大法寺―本永川別當盛德寺―長谷寺起立―龍雲院―長谷寺山内氏と爭ふ―門庵宗關和尚―泉岳寺―大行院―本善寺、東禪寺
新修港区史 (新修港区史 目次)

光林寺    西応寺    真福寺    済海寺    泉岳寺    赤羽接遇所跡    東禅寺
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