• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧

港区/デジタル版 港区のあゆみ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 4件
辞書ファセット
/ 1ページ
新修港区史 ((1) 盛り場繁栄――新橋・赤坂・麻布十番)

(1) 盛り場繁栄――新橋・赤坂・麻布十番 大震災によって大きな痛手をうけた区内も、復興事業が軌道にのって,新橋駅をはさんでの両側の商店街で、一つの盛り場を形成していった。  ,銀座から新橋にかけて、盛り場はネオンのもとで、享楽の仇花(あだばな)をさかせ、一歩裏通りに入れば飲食店,土地柄、赤坂花街との関連をもって発展したが、決してカフエーや飲み屋の歓楽街ではなく、日常生活品の店が大部分,低物価による比較的安定した毎日が、しばらくこうした盛り場の遊興飲食街の繁栄を助長し、〝赤い灯・青い灯〟 / (1) 盛り場繁栄――新橋・赤坂・麻布十番
新修港区史 (烏森花街)

烏森花街 新橋の商業地を歓楽街的方向に誘導したものは、烏森町・日陰町が遊興の地として、新橋以北の芸妓,次第に盛況となって伊勢源・花月楼・浜の家・売茶亭・湖月楼・扇芳亭・今朝などの一流料理店が現われ、繁華な盛り,場を形成したことによる。  
新修港区史 ((四) 庶民の娯楽と楽しみ)

うところでありながら、祭礼や開帳などの行事があれば、さらに多くの江戸市民が集まるところとして、いわば城南の一大歓楽街,【歓楽街】 このように、寺社の門前町にはよく岡場所などの私娼ができた。,神明内門前の芝居や吹矢、土弓場などの遊戯場、さらに岡場所の存在は、この界隈を江戸城南の一大歓楽街にした,城南に居住する民衆はもとより、武士や僧侶たちが集う繁華街であり、時には東海道を旅する旅人たちの立ち寄る盛り,【高輪の海浜】 神明社界隈が城南地区における随一の盛り場だとすれば、そこから品川までの海浜は、風光明媚
新修港区史 (新橋一~六丁目)

とくに北部の一角は、遅くともこのころまでに都心的な盛り場としての景況を確保していた。  ,(ヤミ市)が開かれ、善悪にかかわらず戦後復興の導火線になるとともに、ひき続き北部町域は戦前以上の飲食歓楽街
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました