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港区史 第2巻 通史編 近世 上
(港区の武家屋敷跡遺跡)
港区の
武家屋敷
跡遺跡 港区内では、
武家屋敷
跡遺跡(大名・旗本・御家人屋敷跡)として遺跡地図に登載されている,
武家屋敷
跡遺跡数が寺社跡遺跡や町屋跡遺跡に比して圧倒的に多い所以であるが、なかでも概して広大な敷地を有 / 港区の
武家屋敷
跡遺跡
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(赤坂地域の武家屋敷)
赤坂地域の
武家屋敷
赤坂地域は江戸城外堀の西側に位置していて、北に四谷地域、南に麻布地域、西に青山地域,当初は百姓地ばかりであったと思われるが、以後しだいに町屋が建てられていき、
武家屋敷
も増えていった。 / 赤坂地域の
武家屋敷
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(溜池と武家屋敷)
溜池と
武家屋敷
赤坂地域に隣接し、外堀の一部を形成しているのが、溜池である。,溜池端明地は、元来火除明地(ひよけあきち)としての機能が期待されていたのだが、その土地利用には周辺の
武家屋敷
/ 溜池と
武家屋敷
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(2-1 コラム 愛宕山から見た武家屋敷の景観)
2-1 コラム 愛宕山から見た
武家屋敷
の景観 図2-1-コラム-1 フェリーチェ・ベアト撮影「愛宕山,幕末期に来日したイギリス人外交官アーネスト・サトウ(一八四三~一九二九)も、江戸の
武家屋敷
は二階建ての,
武家屋敷
の景観でもう一つ印象的なのは、どこまでも続く甍の波、瓦屋根であるが、これは江戸時代の全期間を通 / 2-1 コラム 愛宕山から見た
武家屋敷
の景観
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(遺跡の種類)
遺跡の種類 遺跡の種類には、大名屋敷跡、
武家屋敷
跡(大名屋敷ではないことが明らかであるか区分が困難な,遺跡数では、大名屋敷を含む
武家屋敷
跡遺跡が九一遺跡(四五パーセント)と多く、寺社跡が六一遺跡(三〇パーセント,広大な武家地が約七割を占め、残りの空間を寺社地と町人地でほぼ同等の占有率で分け合っていたとされており、
武家屋敷
跡遺跡
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(施設)
施設 庭園は
武家屋敷
の重要な構成要素であった。,いずれも池を擁しているが、一般的に
武家屋敷
の庭園は池を中心とした造りとなっている。,また絵図には現れないが、
武家屋敷
の地中には穴蔵(あなぐら)や地下室(ちかむろ)といわれる施設もあり、発掘調査
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(屋敷地の拝領)
御家人は新たな屋敷地が必要となった場合、拝領を幕府に願い出て許可を得たのち、自ら場所を見立てて、拝領
武家屋敷
,しかし一八世紀半ばになると、もはや新規に開発される土地も限界に達して
武家屋敷
地が不足するようになり、幕府
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(芝口・愛宕下・西久保)
-1-2-1は、『武州豊嶋郡江戸庄図』(図1-1-1-2)のうち港区域にあたる芝口・愛宕下・西久保の
武家屋敷
,旧伊予西条藩一柳監物(ひとつやなぎけんもつ)(直興(なおおき))屋敷を拝領したのが記録上の初見である(以下、
武家屋敷
,図1-1-2-1 『武州豊嶋郡江戸庄図』芝口・愛宕下・西久保地区の
武家屋敷
分布(部分) 国立国会図書館
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(日比谷入江の姿)
一方、港区域では愛宕山の東側、後に愛宕下(現在の新橋から西新橋へかけての地域)と呼ばれる
武家屋敷
地は、,小地形と海岸線の変化」『駒澤地理』52(2006)から転載 この愛宕下地区で実施された愛宕下
武家屋敷
群,
武家屋敷
造成の直前の状況が捉えられている。,溝は、屋敷地造成に際し、低湿地の駆水と土壌の乾燥化を目的とした遺構であるとともに、この溝の一部が後の
武家屋敷
,の発掘調査の成果から」(2016) 発表資料図4をもとに大成エンジニアリングが作成した図(『愛宕下
武家屋敷
群
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(第一項 港区域のなかの百姓地)
-5-1-1は元禄九年(一六九六)の状況を描いたもので、伊達宮内少輔屋敷(伊予吉田藩)と金森彦四郎の
武家屋敷
以外,場所を描いたもので、麻布永坂町、麻布田島町などの町場、のちに町場となる新堀川沿いの明地、そして多くの
武家屋敷
,江戸の発展と軌を一にするように、多くの町場が創り出されて町方へ編入されたり、武家の需要を満たすために
武家屋敷
,白金村、原宿村 特に、下高輪から今里村や白金村にかけてはかなりの農地が広がり、三田村や麻布町では
武家屋敷
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(新出史資料の活用)
また、
武家屋敷
に関する研究の進展によって、各地の保存機関に所蔵されている大名や旗本の江戸屋敷関係の史料,に光があてられ、幕府側の
武家屋敷
関係の史料にも関心が集まった。
図説 港区の歴史
(第3節 大きく変わる土地利用)
新政府は、広い敷地をもつ大名屋敷をはじめとする
武家屋敷
を収公し、目的に応じた新たな利用の在り方を策定していきました
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(港区内の旗本・御家人屋敷)
特に御家人屋敷については、狸穴坂(まみあなざか)下地区
武家屋敷
跡遺跡(No.112)や麻布笄橋(こうがいばし,)地区
武家屋敷
跡(No.126)、北青山三丁目遺跡(No.192)で発掘調査が行われているが、いずれの
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世
(旧石器時代後半期の遺跡)
旧石器時代後半期の遺跡 港区内でまとまった数の旧石器が出土した遺跡としては、旧白金御料地内
武家屋敷
跡遺跡,(渡辺丈彦) 図2-3-2 旧白金御料地内
武家屋敷
跡遺跡出土礫群 白金館址(特別養護老人
新修港区史
(西新橋一~三丁目)
寛政六年(一七九四)一月に類焼して、跡地が防火空地とされることとなり、元地の面積の六分一厘余増しで、
武家屋敷
,【
武家屋敷
と里俗地名】
武家屋敷
は、大名上屋敷が相当数あり、幕末まで臼杵藩稲葉家、小野藩一柳家など八藩,このように
武家屋敷
が多いと、町名がないため里俗の地名が生まれる。
図説 港区の歴史
(今につながる土地利用)
今につながる土地利用 土地利用の在り方は、とりわけ
武家屋敷
跡で大きく変わりました。
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(近世港区域の特色)
一八世紀以降は、台地上に
武家屋敷
があり、また台地の尾根上と台地の狭間の低地部分や、開削された古川のほとりに,このほか、海沿いでは、芝浦・金杉で魚問屋などが集住し、また
武家屋敷
も所在した。 ,伊皿子・二本榎から高輪にかけての台地には泉岳寺や東禅寺などの寺院や
武家屋敷
が展開した。
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(第四項 金刀比羅宮の銅鳥居に見る武家と町人)
岩淵によれば、特に文化文政期以降、普段は閉ざされた空間である
武家屋敷
を開き、神仏公開をはかる
武家屋敷
が,こうした
武家屋敷
の邸内社の公開を通して、邸内社でありながら地域の庶民信仰を受け、造営もそうした庶民組織
図説 港区の歴史
(樹林をともなう公園)
樹林をともなう公園 有栖川宮記念公園(図1-3-5)や旧芝離宮恩賜庭園などはもともと
武家屋敷
で、屋敷林
図説 港区の歴史
(日比谷入江と低地の造成)
いずれにしても、多くの
武家屋敷
が建ち並んだ愛宕下の造成は、水や泥土との闘いだったことが想像できます。,発掘調査の成果から―」(2016年)発表資料図4をもとに大成エンジニアリング株式会社が作成した図(『愛宕下
武家屋敷
群
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(屋敷の内と外)
江戸の
武家屋敷
では、町方および近郊村落から生活物資や用役の供給を受けることによって、居住者の生活を成り,「定札持諸商人付立」(天保10年〈1839〉、山口県文書館所蔵毛利家文庫)をもとに作成
武家屋敷
港区史 第4巻 通史編 近代 上
(第二項 明治後期の芝区)
明治政府はすべての
武家屋敷
を収公し、その一部を各大名に再下賜して、それ以外は皇族・華族の邸宅や官用地に,龍野藩脇坂家の屋敷跡地は、民部省用地を経て東京と横浜を結ぶ鉄道駅に、古川沿岸、河口地域や三田、田町などの
武家屋敷
跡
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(港区域の町人地)
食料・生活必需品や武具・奢侈(しゃし)品を調達する商工業者や、寺社の参詣者相手に店を開く小商人などが、
武家屋敷
港区史 自然編
(ⅰ 港区の地形を歩く)
江戸時代には紀伊徳川家(現迎賓館赤坂離宮)をはじめとする
武家屋敷
、増上寺(ぞうじょうじ)や愛宕(あたご
新修港区史
(人口密度)
武家屋敷
や寺社地の比率が高く、しかも若干の農地も混在していた港区地域は緑も比較的多く、江戸全体の平均水準
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(屋敷改の「町屋鋪帳」)
先に見た「諸向地面取調書」は、この
武家屋敷
管理の一環として編さんされた。
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(「地守附置」の実相)
例えば拝領屋敷が郊外にある者の中には、江戸城への勤仕や生活の利便性を求めて、市中の
武家屋敷
に借地や同居
港区史 第4巻 通史編 近代 上
(第三項 明治後期の麻布区、赤坂区)
高燥の麻布台地上には、五〇〇〇石以下の旗本・御家人(中下層の幕臣)が居住する、二〇〇〇坪程度の中規模な
武家屋敷
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(江戸図屛風)
次に
武家屋敷
については、芝口(現在の新橋一~三丁目、東新橋一丁目ほか)付近および愛宕下(現在の新橋三~,溜池付近に見られる
武家屋敷
は『江戸庄図』に記載のあった「やかた町」に当たるものであろう。
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(寛永江戸全図)
続いて西側の麻布を見ると、『江戸庄図』や「江戸図屛風」では林が覆う丘陵地帯として描かれていたこの地が
武家屋敷
地,なお麻布の
武家屋敷
には黒丸が付されているものが多いが、凡例によればこれは地子下屋敷(じししもやしき)、,二章四節一項参照)は元和六年(一六二〇)の拝領と伝え(「侯爵浅野家回答」)、「江戸図屛風」の溜池端に描かれる
武家屋敷
新修港区史
(麻布台一~三丁目)
【狸穴の由来】 西北角の飯倉狸穴町は、隣接
武家屋敷
の抱屋敷となっていたことがある。,
武家屋敷
を含めたこの一帯の地名としても用いられた。 ,【我善坊】 明治二年(一八六九)にはまったく町の分合がなく、同五年に既存の各町に
武家屋敷
の土地を合わせ
新修港区史
(麻布十番(じゅうばん)一~四丁目)
同年にはまた、芝新網町の一部が
武家屋敷
に召しあげられ移転してきて、現一丁目八・九番のところで七割増坪で,これが同六年に新網町の元地の
武家屋敷
が取り払いとなり地主五人を残して戻り、あとの空地がしだいに拝領町屋,一帯に
武家屋敷
が大半を占めた麻布では例外的に町屋の比率が高いところであり、現在の十番商店街の素地は、すでに
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(歴史学における新たな研究動向の反映)
しかし一九八〇年代以降は、個別の町や集団、
武家屋敷
、都市の中の寺社、多様な都市文化などが注目され、微細
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(青山御手大工町)
青山御手大工町 青山御手大工町は現在の青山通り沿いに位置し、
武家屋敷
がひしめくなかに点在する町の一つである
図説 港区の歴史
(変わる大名屋敷と寺院境内)
変わる大名屋敷と寺院境内 明治新政府は、原則として大名屋敷を中心とするすべての
武家屋敷
を収公して一部
新修港区史
(元赤坂町の場合)
召上げられ、虎の門外に移されたが、寛政六年に類焼のため兼房町と併せて火除地として召上げられ、地続きの
武家屋敷
上
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(武家地とその類型)
江戸の
武家屋敷
は基本的に将軍家から下賜されたもので、これを拝領屋敷(はいりょうやしき)という。
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(町屋敷を所持する武士)
これらは
武家屋敷
と同様に売買や質入れが禁じられた。
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(百姓地の産業)
これらは、自給のほか、江戸市中への販売を目的としたものであり、町場や
武家屋敷
が広がるのとは異なる、もう
新修港区史
(東麻布一~三丁目)
芝森元町は、元和以来下谷切手町(現町名不明)にあって、元禄十一年(一六九八)に類焼、寛永寺用地となり、芝の
武家屋敷
,【新網町】 麻布新網町二丁目は、元地の芝新網町(現浜松町)が宝永四年(一七〇七)に
武家屋敷
となり、同六年,
武家屋敷
は、幕末に大名屋敷として現二丁目に新庄藩戸田家上屋敷と丸亀藩京極家中屋敷があっただけで、ほかは
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(近世 上 目次)
高松藩松平家目黒下屋敷 …… 194 八 大名屋敷の終焉 …… 197 コラム 愛宕山から見た
武家屋敷
, 二 旗本屋敷 …… 268 三 御家人屋敷 …… 276 第五節 発掘された
武家屋敷
跡
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(参考文献)
幕臣の土地問題」吉田伸之編『日本の近世』九(都市の時代)中央公論社 宮崎勝美・吉田伸之編 一九九四『
武家屋敷
,和歌山藩江戸屋敷の獲得過程-中屋敷の拡大過程を中心として」『論集きんせい』一五 内藤啓太 二〇一八 「江戸
武家屋敷
,西国大名経済と堂島」『史料館研究紀要』一三、(国立)史料館 松本剣志郎 二〇一九 「江戸の橋梁維持と
武家屋敷
組合,土浦藩江戸屋敷について-老中役屋敷の成立」『土浦市立博物館紀要』二三 宮崎勝美 一九八九 「江戸の
武家屋敷
地,でる』港区立港郷土資料館 ■二-五-二 追川𠮷生 二〇〇七 『江戸のなりたち』二(
武家屋敷
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(大名屋敷跡遺跡の概況)
となった陸奥八戸藩南部家屋敷跡遺跡(No.83)、石見津和野藩亀井家屋敷跡遺跡(No.156)や愛宕下
武家屋敷
群
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(再開発に伴う発掘調査)
この発掘調査に伴い、江戸時代にこの範囲に所在した
武家屋敷
とその変遷について、古文書や絵図などによる文献史学的調査
図説 港区の歴史
(旧石器時代)
東京都教育委員会所蔵 右下の1点が後期の遺物、その他が前期の遺物 図2-1-3 旧白金御料地内
武家屋敷
跡遺跡
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(遺構・遺物でみる暮らしの断片)
強いて挙げれば、巨大なごみ穴が検出されない限り居住空間からの遺物の出土量は
武家屋敷
跡に比べると相対的に
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(目黒行人坂の大火)
目黒行人坂(ぎょうにんざか)の大円寺に発した火災は、富士南といわれる南西の風にあおられて江戸城直下の
武家屋敷
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(庶民の暮らし)
以下の各項では、港区域の特徴の一つである、寺社や
武家屋敷
の周辺に点在する町を取り上げ、そこで生きる庶民
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世
(第三項 弥生時代の終焉と次代への胎動)
港区域では中部高地系統の朝光寺原式土器が僅かな点数ではあるが出土し、麻布仲ノ町地区
武家屋敷
跡遺跡出土の
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世
(後期の遺跡)
谷頭には麻布仲ノ町地区
武家屋敷
跡遺跡(No.134)があり、後期中葉に遡る可能性も考えられている。
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