機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
港区/デジタル版 港区のあゆみ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 23件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
図説 港区の歴史
(第18節 品川台場―海上砲台の誕生)
第18節 品川台場―海上
砲台
の誕生 多くの観光客で賑わう、港区台場。,台場」の名で親しまれたこの場所は、嘉永6年(1853)6月3日のペリー艦隊来航を機に、幕府が築いた海上
砲台
/ 第18節 品川台場―海上
砲台
の誕生
新修港区史
(港南一~五丁目)
すなわち、幕末海防の要請によって嘉永六年(一八五三)八月から急遽、築造を開始した
砲台
地であって、一四番,そのうち第四は、明治十八年ごろから陸軍造船所となっていたが、同三十八年第一・二・四・七
砲台
地は陸軍省が,、第三・第六
砲台
地は内務省が、第五
砲台
地は官有地として芝区大字品川沖一~七番地として登記表示された。,これが明治四十一年の東京市市勢調査に当たっては、芝区品川
砲台
と表示されており、明治四十二年造船所のあった,【品海
砲台
】 大正九年十月一日の国勢調査で芝区品海第一~第六
砲台
と表示され、以後それを踏襲して芝区品海
砲台
新修港区史
(浅海水産開発と海苔養殖加工)
明治初年以降、漁場の混乱などで海苔の養殖も進展しなかったが、十年代に入って海苔採培技術の研究が進められ、一番
砲台
,から七番
砲台
までの旧台場
砲台
周辺が好適な浅海であることが判明し、地元漁民は府に海面借用を出願、養殖の発展,明治十九年二月、第三
砲台
付近に二万坪の海面借用を願い出て、一万坪が許可になっている。
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(はじめに)
艦隊来航後の嘉永六年(一八五三)八月末から、首都江戸の防衛のため江戸湾内海(内湾)の品川沖に普請した
砲台
,幕府は、一一基の海上
砲台
を普請する計画で事業を開始し、後に陸続きの御台場(品川御殿山下台場、陸附四番台場,)を加えて一二基計画に変更したが、翌安政元年(一八五四)一二月、五基の海上
砲台
(第一、第二、第三、第五,、第六)と一基の海岸
砲台
(品川御殿山下台場)の計六基を普請した時点で工事を終了した。
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(台場の名称)
するための軍事施設であり、幕府の対外政策の一つである海防(海岸防備・海岸防御)において中心的な役割を担った
砲台
,史料の多くは「御台場」と表現しているが、一八六〇年代後半に入り「御
砲台
」という名称が散見され、明治以降,「
砲台
」に統一されたようである。
図説 港区の歴史
(御台場とは)
御台場とは 江戸幕府が江戸湾内海の品川沖に計画した海上
砲台
は、将軍の居城江戸城と城下町江戸を直接防衛,御台場とは
砲台
と同義であり、「御」は築造責任者となる将軍または大名などを指す用語のため、基本的に江戸時代
港区史 第2巻 通史編 近世 上
(遺跡の種類)
ではないことが明らかであるか区分が困難な場合)、寺社跡、墓所跡、墓跡、町屋跡、幕府御用地跡、上水跡、道路跡、
砲台
跡,門前町屋を含む町屋跡は三一遺跡(一五パーセント)、上水跡・
砲台
跡などのその他の遺跡が二〇遺跡(一〇パーセント
港区史 第6巻 通史編 現代 上
(31:港南(一〜五丁目))
幕末期の嘉永六年(一八五三)に海防上の要請から
砲台
地として築造された第三台場と第六台場が埋め立ての最初,これらの台場は明治八年(一八七五)には陸軍省所管となって芝区に所属したが、同三八年に至ると第一・二・四・七
砲台
地,戦後、港区の発足に伴いこれらの土地は芝品海
砲台
・芝高浜町・芝海岸通となったが、昭和二六年から品川埠頭となる
新修港区史
((1) 品川台場(港南五丁目一三番一四番・海上))
港南五丁目一三番一四番・海上) ペリー来航に驚愕した幕府は、江川太郎左衛門らに命じて沿岸警備のため
砲台
図説 港区の歴史
(品川台場の計画図面「品川台場絵図」)
、品川の洲崎(すざき)沖(図右下)から深川の洲崎沖(図中央左)にかけての海域(品川沖)に11基の海上
砲台
図説 港区の歴史
(御台場の構築資材調達)
第二・第三・第五・第六)、1基が陸続き(品川御殿山下)でしたが、6,000~1万坪ほどの非常に大きな
砲台
,将軍、幕府直轄の大公共事業であり、海上に巨大な人工島
砲台
を造るという特殊な条件であったため、経験者が招集
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(普請場所の地形)
幕府は、この天然の要害を利用して一一基の海上
砲台
普請の計画を立て(のちに一二基計画に変更)、半数に当たる
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(公使の江戸再進出)
イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四か国の連合艦隊が下関海峡で長州藩と交戦し、外国艦隊は長州藩の
砲台
港区史 第5巻 通史編 近代 下
(明治初期の東京港と築港計画)
、品川湾を掘削して大型船が接岸できる港の整備を目的として、芝浦一帯を候補地として挙げ、芝離宮から品川
砲台
港区史 自然編
(1)低地の地形)
写真1-ⅳ-1────高浜運河(港南4丁目) 幕末のペリー来航で7か所の台場(
砲台
)が建設された。
港区史 自然編
(❖自然と文化財の保護・保存)
は、外国船の襲来対策として、幕末の嘉永6年(1853)から翌7年にかけて江戸湾及び地続きに構築された
砲台
図説 港区の歴史
(図説 港区の歴史 目次)
プロ集団が住まう町 144 17 町の職人―鋳物師 148 18 品川台場—海上
砲台
港区史 第4巻 通史編 近代 上
(日清戦争と第三連隊)
一一月二一日の旅順要塞攻略作戦に参加した第三連隊は、要塞の
砲台
を次々と占領するなど要塞攻略に活躍した。
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(木材と石材の調達)
調達分布図 冨川武史「幕末期江戸湾防備の拠点・品川御台場の築造体制と資材調達」 『大阪湾防備と和田岬
砲台
新修港区史
(品川電燈株式会社)
村井兄弟商会三田分工場 丸山燃寸製造所 芝区露月町二一 麻布区北日ヶ窪四〇 芝区芝金杉新浜町一 芝区品海第四
砲台
港区史 第4巻 通史編 近代 上
(日露戦争と第三連隊)
「白襷隊」は旅順要塞第四
砲台
への突撃を敢行して勇戦したが、死傷者が続出したため、軍司令官である乃木希典
新修港区史
([[官有地の拡大]])
;43.242000 80.855000 第 三 種 公園地 陸軍省所轄
砲台
港区史 第3巻 通史編 近世 下
(参考文献)
港区立港郷土資料館 ■六-一はじめに 冨川武史 二〇一四 「最幕末期の江戸湾防備強化と越中島
砲台
/ 1ページ