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港区/デジタル版 港区のあゆみ

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港区史 第4巻 通史編 近代 上 (芝公園)

芝公園   図1-1-2-1 芝公園蓮池(明治26年〈1893〉) 『東京景色写真版,』国立国会図書館デジタルコレクションから転載    芝公園(図1-1-2-1)は、明治六年,芝公園内の貸地面積は四四六六坪で、そのうちの二六二九坪が「火焚所住居地」、一八三七坪が「葭簀張並花園地,」であり、こうした賃借料などで芝公園の運営が行われたのである(東京都編 一九三二)。  ,このため、芝公園にはいくつかの政府機関も設置されている。 / 芝公園
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (芝公園)

芝公園 芝区の増上寺は、福澤諭吉が「其最新にして最も美大壮麗を極め、唯日本国の壮観のみに非ず世界中殆,つ)ぐ」(慶應義塾編 一九七〇)とまで絶賛した仏閣だが、その境内の一部が明治六年(一八七三)一〇月、芝公園,弁天堂の蓮の花も有名で、市内で花をめでるために蓮を育てていたのは芝公園と上野の不忍池のみだったという(,当時ののんびりした芝公園の風景がうかがえよう。   / 芝公園
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (芝公園プール)

芝公園プール スポーツ濫觴の地となったのは芝浦埋立地だけではなかった。,先述した芝公園内にも大正九年(一九二〇)、井の頭公園などとともに東京府営のプールを建設する計画が持ち上,芝公園のプールでは、全日本選手権水泳大会(大正一二年、一三年)や全国学生水上競技会(大正一五年~昭和三年,しかし、芝公園のプールも競技用としては決して満足のいく施設ではなかったようだ。,の意味を持つた競技会でも開かれる場合には芝公園の市設水泳場で行ふより致方がない様な情けない有様である」 / 芝公園プール
図説 港区の歴史 (芝公園採集の埴輪)

芝公園採集の埴輪 芝公園ではしばしば埴輪片が採集されています。,点の人物埴輪の頭部はよく知られていますが、立正大学博物館が所蔵している人物埴輪頭部(図3-2-6)も芝公園出土,図3-2-6 伝芝公園出土人物埴輪 立正大学博物館所蔵  発掘調査では、芝丸山古墳の東方に位置する,図3-2-7 増上寺寺域第2遺跡出土埴輪(縮尺1/2)   図3-2-8 芝公園採集埴輪 / 芝公園採集の埴輪
新修港区史 (芝公園一~四丁目)

芝公園一~四丁目 淀橋面に属する丘陵が東辺で、沖積地に沈む地形である。  ,境内は現芝公園の大部分におよんでおり、中央本堂の左右に北廟・南廟が設けられ、東部・南部には子院・学寮等,のち芝公園が地名同様に扱われることになり、(公園化は六年三月、同七月、七年一月、同七月の諸説あり)とくに,都市施設としての公園をさすばあいと区別するためか、地名のばあい芝公園地と唱える習慣もあった。,また、何番地といわず芝公園○号地○番と呼んだ。   / 芝公園一~四丁目
新修港区史 (総評会館、芝公園内に建設)

総評会館、芝公園内に建設 昭和三十年五月芝公園八号の二(現 芝公園一丁目八番三号)に七〇六・二平方メートル / 総評会館、芝公園内に建設
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (9:芝公園(一〜四丁目))

9:芝公園(一〜四丁目) 武蔵野丘陵淀橋面に属する丘陵が東辺をなし、沖積地にかけて沈む地形となっている,現在の芝公園の大部分は増上寺の境内であったようである。,公園を指す場合と区別するためか、芝公園地と呼ぶ習慣もあったようである。,公園としての芝公園は都立公園として整備されていった。,平成一四年(二〇〇二)、増上寺と東照宮の間に港区立芝公園が開設した。 / 9:芝公園(一〜四丁目)
新修港区史 ((1) 芝公園四丁目)

(1) 芝公園四丁目 もと西向観音堂があったあたりで、大正六年(一九一七)に鳥居龍蔵氏が発見したという / (1) 芝公園四丁目
新修港区史 ((4) 芝公園四丁目二番)

(4) 芝公園四丁目二番 これも貝塚であるとされ、東京タワー敷地の西端あたり、往年の「紅葉館」の敷地 / (4) 芝公園四丁目二番
新修港区史 ((3) 丸山貝塚(芝公園四丁目八番))

(3) 丸山貝塚(芝公園四丁目八番) 【丸山貝塚】 芝公園内にあって、後に述べる大古墳が営まれている / (3) 丸山貝塚(芝公園四丁目八番)
新修港区史 (江戸の名残りを喪失した芝公園周辺)

江戸の名残りを喪失した芝公園周辺 昭和二十一年八月、〝小平事件〟が起きたころの芝公園一帯は、戦災によって / 江戸の名残りを喪失した芝公園周辺
新修港区史 ((3) 区内の中学校)

芝中学校 芝区芝公園二二号 慶応商業学校 芝区三田慶応義塾内  正則中学校 芝区芝公園二四号 大倉商業学校,聖心女子学院高等女学校 芝区白金三光町  普連土女学校 芝区三田功運町 香蘭女学校 同  戸板裁縫女学校 芝区芝公園二二号,をみると、大正八年現在、一五区に二八の公私立中学校があったが、このうち区内には六校を数え、芝区内には、芝公園内,に正則中学、新銭座町に攻玉社中学、芝公園内に芝中学、高輪台町に高輪中学の四校、赤坂区内の仲ノ町に赤坂中学
図説 港区の歴史 (方形周溝墓以前)

方形周溝墓以前 伊皿子貝塚遺跡に方形周溝墓がつくられる前、芝公園に弥生時代の墓が存在した可能性が、芝公園,図2-4-6 伝芝公園出土須和田式壺形土器 明治大学博物館原蔵
港区史 自然編 (3)芝から高輪へ(図1-ⅰ-5))

から高輪へ(図1-ⅰ-5) 図1-ⅰ-5────芝から高輪付近の地形(地理院地図)  港区役所は芝公園,1丁目にあり、日比谷通りに面し、増上寺や芝公園の近くである。,区役所の標高は約3mで、一方、日比谷通りの西側の増上寺や芝公園は高台になっており(写真1-ⅰ-7)、標高,写真1-ⅰ-7────増上寺(芝公園4丁目)  第一京浜沿いには、JR田町駅の近くに「札(ふだ)の辻
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世 (第二項 芝丸山古墳群)

第二項 芝丸山古墳群 武蔵野台地の東端、現在の芝公園内には南北に細長く延びる独立丘状を呈する段丘があり,図1-2-2-1 芝丸山古墳群全体図 坪井正五郎「芝公園丸山大古墳及び其近傍に在る数ヶ所の小古墳に付
図説 港区の歴史 (空から観(み)た芝丸山古墳)

空から観(み)た芝丸山古墳 図3-2-1 昭和22年(1947)の芝公園南半 国土地理院空中写真をもとに,作成    現在、芝公園には、都内最大級の前方後円墳といわれる芝丸山古墳が残存し、その周囲
図説 港区の歴史 (参考文献)

伊皿子貝塚遺跡出土のウシについて」港区立港郷土資料館『研究紀要』15 坪井正五郎 1900「東京市芝公園古墳実査,の結果」『考古』1 ~3 坪井正五郎 1903「芝公園丸山大古墳及び其近傍に在る数ヶ所の小古墳に付いて,」『古蹟』2-1 鳥居龍蔵 1933「芝公園に残存する上代の古墳に就いて」『武蔵野』20-7
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (被害への対応と復興)

震災四日後の九月五日には、増上寺で二〇〇〇人、芝公園に六七三〇人、芝小学校や慶應義塾大学などに二一四四人,芝公園や芝離宮には、内務省の直営、東京府委任、東京市請負とそれぞれの運営主体の異なるバラックが建設され,ここで、芝公園や芝離宮のバラックの概要を確認してみよう。,芝公園では増上寺が、芝離宮では救世軍が、運営しともに託児所が設置されていた。,焼失した地域も広く復旧には多くの時間が必要で、芝公園、芝離宮のバラックでは、翌大正一三年(一九二四)一月
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (戦争への対応)

明治三三年(一九〇〇)に仏教懇話会として発足し、大正四年(一九一五)に改称した仏教連合会は、昭和五年、本部を芝公園内,昭和七年七月、満州事変と上海事変における戦死者が初盆を迎えるにあたり、増上寺(芝公園四丁目)で国民大法要大会,また、同年一〇月に明照会館(芝公園四丁目)で開催された仏教各宗派時局懇談会では、「目下の国際時局に際し,例えば、昭和一二年九月からの国民精神総動員運動の開始に連動するように、仏教連合会は、一〇月より芝公園協調会館
新修港区史 ((6) 東京勧工場)

【東京勧工場】 芝公園第六号地内に資本金一万五、〇〇〇円をもって東京勧工場が開設されたのは、明治二十一年一月,芝公園地内に過般来建築工事中なる同会社物品陳列場はいよ/\竣工したるに付昨二十日より廿二日迄三日間開場式,芝公園地内の東京勧工場(明治21年)  勧工場のあった場所は、後に建てられた協調会館のはずれ、現在
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (勧工場の開設)

表2-4-1-2にもあるように、明治二一年、府立第一勧工場の系譜をひく東京勧工株式会社が設立され、芝公園内,明治二七年には、芝区内では、東京勧工株式会社(芝公園地内)、清隆館(愛宕下町〈現在の新橋三~六丁目〉),児童文学者の巌谷小波(いわやさざなみ)は、芝公園の勧工場で箸や人形などを購入し、その後、近隣の高級飲食店,(三科仁伸)   図2-4-1-4 芝公園勧工場(明治26年〈1893〉頃) 『東京景色写真版
新修港区史 ((七) 三〇年間を港区内で推移した「新産別」の動き)

するや、共産党の組合支配を批判して、同年十二月十日、全国産業別労働組合連合(新産別)を結成し、本部を芝公園六号地,(現芝公園一丁目八番)に置いた。
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世 (考古学調査・研究の緩やかな進展)

鳥居は、大正七年(一九一八)に芝公園内の古墳で発見された埴輪について、雑誌『武蔵野』に執筆している。,これには、明治中ごろから存在が知られていた丸山貝塚(芝公園内)も掲載されている。
新修港区史 ((4) 初年の官立学校)

開拓使東京仮学校】 官立の学校として港区地域内に設置されたものに、明治五年(一八七二)四月増上寺内方丈跡(芝公園四号地,さらに、同七年十月海軍経理学校の前身である会計学舎が芝公園地内に設けられたが、翌年主計学舎と改称、同十年
新修港区史 (奥付)

昭和五十四年五月 発行         編集兼発行者  東京都港区役所         東京都港区芝公園一
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世 (第一項 弥生文化到来のころ)

芝公園で出土したと伝えられる、この時期の一点の壺形土器(図4-2-1-1)を、明治大学博物館(千代田区駿河台,天神前遺跡の壺棺再葬墓に用いられた土器は、ほとんどが伝芝公園出土壺形土器と同じ時期の須和田式土器であった,図4-2-1-1 伝芝公園出土の弥生土器 原図:下島綾美氏
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (愛宕公園)

愛宕公園は芝公園のように府が主導したわけではなく、愛宕神社の氏子や祠掌(ししょう)(神職)の松岡徳善が,なお、公園の運営にあたっては、芝公園などと同様に、公園内に賃借地を設定し、その収益を基本とすることが示,愛宕公園は、芝公園の面積が一六万二二五六坪であるのに比較すると、わずかに四三九二坪と、かなり狭小な公園
新修港区史 ((三) 古墳時代の遺跡)

港区内においても、この時代の遺跡・遺物が必ずしも多いとはいえないが、芝公園内の丸山古墳をはじめいくつかの,すなわち、港区内の古墳それ自体は、前述の丸山古墳をはじめとする約一〇基の芝公園古墳群や三田四丁目の亀塚
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (近代文化財の保存意識のめばえ)

この本に港区域から掲載されているのは、高輪岩崎別邸門(旧岡山藩上屋敷長屋門)、高輪泉岳寺四十七士墓、芝公園貝塚,、芝公園丸山の大古墳・古墳群、芝増上寺山門、芝徳川家霊廟、善福寺大公孫樹のみで、明治以降は対象となっていない
新修港区史 ((1) 国民生活の危機と労働運動)

各工場には、労働争議が激発し、労資協調機関として芝公園に設けられた協調会館においては、争議の解決がとうてい
図説 港区の歴史 (芝丸山古墳・円墳群の世界)

芝丸山古墳・円墳群の世界 芝公園には現在、東京都により史跡指定を受けた芝丸山古墳が存在し、昭和30年代前半,図3-2-2 芝公園内古墳分布図 『古蹟』2-1(1903年)より作成  明治30年(1897),える都内最大級の前方後円墳といわれ、南は古川によって刻まれた谷と、芝の微高地に臨み、東は海を遠望する、芝公園
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (血清薬院)

に仮事務所を設け、芝白金三光町(現在の白金三・五丁目)に用意された附属飼育場とともに開所し、まもなく芝公園
新修港区史 (その他の開発計画への対応)

このようななかで区議会は、区画整理事業計画の修正、芝公園の緑地保全などについて活動を重ねた。
図説 港区の歴史 (参考文献)

鈴木公雄 1989『貝塚の考古学』UP考古学選書5、東京大学出版会 坪井正五郎 1900「東京市芝公園古墳実査,の結果」『考古』第1編第1号 坪井正五郎 1903「芝公園丸山大古墳及び其近傍に在る数ヶ所の小古墳に
新修港区史 ((四) 生活を守る闘い)

【芝公園の緑地を守る動き】 芝公園内にある旧徳川家私用墓地約三万坪を西武鉄道が買収し、大観光ホテルを建設,一方、区議会だけではなく、区役所、各町会、婦人会、PTAなどを一丸とした「芝公園緑地保存期成同盟」を一月三十一日,そして三月六日には、さらにこの反対運動を強力なものとするために、「芝公園緑地保存区民大会」を開き、区総,実に本年一月、同盟が発足して以来、六ヵ月の長期にわたって続行された芝公園緑地保存問題も、これで一応の結着,(『港区政ニュース』昭和三十三年七月二十一日号) 芝公園緑地保存区民大会
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世 (中期の遺跡)

また、明治大学博物館所蔵の中期中葉の壺形土器(93頁)が芝公園出土とされているが詳細は不明である。
港区史 自然編 (2)天然記念物など)

写真1-ⅲ-1────善福寺のイチョウ  芝東照宮(芝公園)のイチョウは東京都指定の天然記念物である,写真1-ⅲ-3────細川邸スダジイ  赤坂氷川神社(赤坂)のイチョウと増上寺(芝公園)のカヤは港区指定
図説 港区の歴史 (第1節 総説)

伝芝公園出土人物埴輪 立正大学博物館所蔵
図説 港区の歴史 (都会の中の漁師町)

37年(1962)頃の雑魚場(ざこば)    晴れた日に、多くの子どもたちの歓声が響く本芝公園
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世 (調査の目的と組織)

芝公園の円墳群や増上寺徳川将軍墓の調査は、まさにその象徴である。
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世 (中期の遺跡)

芝公園に所在する丸山貝塚(No.23)は、中期末葉から形成された可能性が考えられるが定かではない。
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (芝区北部の変化――武家地、寺社地、町人地の混在から工業地帯へ)

とともに徳川将軍家墓所として徳川家の庇護を受けていたが、明治維新後、政府はその広大な寺域の一部を開放して芝公園,明治二一年(一八八八)芝公園内に設置された東京勧工場(現在の慶應義塾大学芝共立キャンパス、港区役所の位置
港区史 第2巻 通史編 近世 上 (西久保通・三田通沿いの町)

で見た西久保の寺町となり、その南に町場(飯倉町一~五丁目、現在の麻布台一・三丁目、東麻布一~二丁目、芝公園四丁目
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (労働者および生活困窮者への対策)

震災直後に宿泊が困難な者を収容するための宿泊保護事業が後藤忠助により始められ、大正一三年には芝区芝公園,また増上寺社会部は芝区芝公園の地で震災で罹災した宿泊困難学生の収容活動を行った。,軍人・軍属の遺族・家族の慰安・救助に関しては軍事救護事業として、明治二七年から芝区兵事義会が芝区芝公園芝区役所内
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (第二項 二〇〇〇年代以降の地域ごとのまちづくり)

ごとのまちづくり 芝地区 【新橋、浜松町、虎ノ門周辺(海岸、東新橋、新橋、西新橋、浜松町、芝大門、芝公園,さらにまちづくりマスタープランを平成一九年に改定し、港区を代表する景観を創造するため、芝公園周辺一帯の,芝公園や旧芝離宮恩賜庭園周辺においては庭園等からの眺望を保全し、港区の歴史・文化・自然等を感じられる質,芝公園などの整備により身近な緑地空間の充実、愛宕山、芝離宮、芝公園などの緑の拠点のネットワークを進めるとともに
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (官立の中等教育機関)

したため仮校舎へ移ったのち、明治一七年三月には赤坂溜池工部省構内美術学校跡に移転し、さらにその二年後には芝公園海軍省跡,明治一五年に芝公園三嶋谷に再興したのち、明治二一年に京橋区築地四丁目(現在の東京都中央区築地五丁目)に
港区史 自然編 (3)埋没地形の分布)

.+5.23m)  古川の谷の続きは、芝公園の南で地下10~15mの深さの谷となっているが、「丸の内埋没谷,図3-ⅲ-7────芝埋没台地の柱状図(芝公園1丁目、孔口標高:T.P.+3.00m)  これらの埋没台地
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世 (坪井正五郎)

このころに坪井は、芝公園内に点在する塚を踏査して古墳であると推定し、その保存を東京府に提出する。,委嘱された坪井は、翌年春の発掘調査で古墳であることを明らかにし、同三十二年調査報告書とともに「東京市芝公園内古墳保存意見
港区史 自然編 (港区平和都市宣言・奥付)

自然編 令和2年(2020)10月 発行 発行 港区    〒105-8511    東京都港区芝公園一丁目
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世 (港区平和都市宣言)

 発行 編集発行    港 区         〒105-8511         東京都港区芝公園一丁目
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