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港区/デジタル版 港区のあゆみ

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新修港区史 (芝浦一~四丁目)

芝浦一~四丁目 【芝浦の由来】 芝浦の地名の初出は、芝の項でのべている道興准后の歌である。,新芝町と本芝四丁目、田町一~五丁目の各一部分が西芝浦一丁目に、芝浦町三丁目が西芝浦三丁目に、月見町三丁目,が芝浦三丁目に、月見町一丁目と田町五~九丁目、車町の各一部分が西芝浦二丁目に、月見町二丁目が西芝浦四丁目,さらに、昭和三十九年(一九六四)の住居表示の町名変更では、西芝浦一丁目と三丁目で芝浦三丁目を、芝浦三丁目,と西芝浦二・四丁目で芝浦四丁目を構成した。 / 芝浦一~四丁目
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (芝浦の花火)

芝浦の花火 芝浦は一時、花火でも有名だった。,芝浦の花火大会は、柳橋花街と競争しようという神明や芝浦の人々の発起によって始まったらしく、両国の川開きに,木村荘八は「芝浦の花火は多摩川に先立って『第二級花火』の恒例となりかけたもの」(木村著、尾崎編 一九九三,しかし、芝浦の賑わいは、ロセッタホテルが開業した頃から変わり始めていく。  ,芝浦の花火も一帯の埋め立てとともに姿を消した。 / 芝浦の花火
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (芝浦国民学校)

芝浦国民学校 この時期に新設された国民学校に芝浦国民学校がある。,芝浦国民学校は昭和一七年(一九四二)二月二〇日に創立され、当時の児童は五四八名、一二学級、職員は一五名,当時、芝浦周辺の児童が通っていた竹芝、芝、南海など各国民学校は、通学距離が長く、また車馬の往来が激しく,であったため、教材教具などが不足して教員が自作したり、教員が足りずに校長が苦労をしたりしたとの回想がある(『芝浦 / 芝浦国民学校
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (芝浦と海水浴場)

芝浦と海水浴場 芝区には神明と烏森に加え、芝浦にも花街があった。  ,落語の「芝浜」でよく知られる芝浦は、江戸前の漁場として知られた風光明媚な海岸で、月見や潮干狩りなどで賑,このようなのどかな芝浦が大きく変わる転機となったのは、明治五年(一八七二)の鉄道の開通であった。,芝浦は「都心に近い所であり、眺望は好く、居乍らにして海水温浴で汗を流し蟹や黒鯛で一杯やれる簡便な避暑法,当初、芝浦では神明から芸妓を呼んでいたが、それでは大変に時間がかかるというので、芝浦にも花街ができていくのである / 芝浦と海水浴場
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (芝浦港南地区)

芝浦港南地区 この地域は、明治から昭和にかけて段階的に埋め立てられ、まちの歴史は比較的浅く港湾流通機能,住民基本台帳から作成 二〇〇〇年代に芝浦港南地区の人口に影響を与えた出来事として、平成一九年の芝浦アイランド,芝浦アイランドは、平成九年に国が都市計画法および建築基準法の一部を改正し、高層住居誘導地区制度としたことが,契機となり、同一一年に東京都が港区芝浦四丁目地区を高層住居誘導地区に指定したことで建設された。,しかし、他の地域と芝浦港南地区とはJR線の鉄道施設により分断されていたため、JR線東西方向や芝浦港南地区 / 芝浦港南地区
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (芝浦スケート場)

芝浦スケート場 明治神宮外苑の完成によって多くのスポーツの中心は区内から移ってしまったが、芝浦埋立地,昭和八年(一九三三)一一月、埋立地四号に東洋一をうたう芝浦スケート場が開場したのである。  ,芝浦スケート場は、結氷面二五メートル×六〇メートルの広さを誇る日本で初めての国際標準型のスケートリンク,だった四年後の第五回冬季オリンピック(第二次世界大戦勃発のため中止)に備え、国内での普及発展を図るため、芝浦,世界選手権で優勝した選手数名を含んだバトルフォード・ミラー・アイスホッケーチームがカナダから来日し、芝浦 / 芝浦スケート場
新修港区史 (戦時下の芝浦工業街)

戦時下の芝浦工業街 芝浦方面の発展、とくに戦時中の軍需工場の拡大は、芝浦の工場地帯を盛大に赴かせるとともに,東京港の開港は、日の出桟橋を中心に多くの大船の寄港を容易にしたことと相まって、戦時下の物資輸送のために芝浦一帯,芝浦工場地帯の重要性は、当然ここを東京における軍関係の戦時における一つの中心地にしていった。  ,じたのであるが、そこまで容易に進捗しないうちに、ついにB29の襲撃をうけるに至り、多くの工場の焼失、ことに芝浦工場地帯 / 戦時下の芝浦工業街
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (第六項 芝浦港南地区の町域)

第六項 芝浦港南地区の町域 29:芝浦(一〜四丁目) 近世において既に陸地となっていたのは現在の芝浦一丁目,これらの埋立地は、昭和一一年の町域町名整理で芝浦町二丁目が芝浦二丁目、新芝町と本芝四丁目、田町一〜五丁目,の各一部分が西芝浦一丁目、芝浦町三丁目が西芝浦三丁目、月見町三丁目が芝浦三丁目、月見町一丁目と田町五〜,九丁目および車町の各一部分が西芝浦二丁目、月見町二丁目が西芝浦四丁目となる。,そして、昭和三九年の住居表示事業において、西芝浦一丁目と三丁目で芝浦三丁目を、芝浦三丁目と西芝浦二丁目 / 第六項 芝浦港南地区の町域
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (芝浦・港南周辺)

芝浦・港南周辺 芝浦・港南地域は、明治以降の急速な埋め立てによって造成された地域であり、かつては、工場,港区は、昭和六二年の組織改正により芝浦・港南地域整備担当を設置し、同年「芝浦港南地域整備基本計画」を策定,の建設および公共施設の整備等を総合的に行うことを目的とした特定住宅市街地総合整備促進事業の一環として芝浦,また、竹芝から芝浦への埠頭部分や田町―レインボーブリッジ(図7-4-3-2)―台場へとつながる水の軸と / 芝浦・港南周辺
図説 港区の歴史 (今に伝わる芝浦の賑わい)

今に伝わる芝浦の賑わい 図6-12-1 港区立伝統文化交流館(区指定有形文化財、芝浦一丁目)  ,;  昭和11年(1936)、芝浦花柳界の見番(けんばん)として建築されたこの建物は、旧見番としては,当時の芝浦の賑わいをうかがわせるこの建物は、アジア・太平洋戦争後、港湾労働者のための施設として転用されました / 今に伝わる芝浦の賑わい
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (みなとパーク芝浦の開設)

みなとパーク芝浦の開設 平成二六年一二月、田町駅東口に港区最大規模の複合施設「みなとパーク芝浦」が開設,この施設は、芝浦港南地区総合支所、消費者センター、男女平等参画センター「リーブラ」、港区スポーツセンター,また、「みなとパーク芝浦」という呼称も、区民公募により決定した。 / みなとパーク芝浦の開設
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (田中製造所(のちの芝浦製作所))

田中製造所(のちの芝浦製作所) 港区域にできた近代工場の先駆けとして、田中製造所を見逃すことはできない,機械製作所を、弟子であり養子である田中大吉(二代目田中久重、一八四六~一九〇五)が明治一五年(一八八二)に芝浦,わると経営が苦しくなり、明治二六年、債権者の三井銀行から藤山雷太(らいた)を招聘(しょうへい)、名称を「芝浦製作所,芝浦製作所はのちに東京電気株式会社を合併し、今日の東芝に至る。   / 田中製造所(のちの芝浦製作所)
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (「港区芝浦港南地域整備基本計画」策定)

「港区芝浦港南地域整備基本計画」策定 芝浦港南地域の大部分は、大正年間以来の海浜埋立地で準工業地域に,港区では、「定住人口の確保」と「都心機能の充実」の課題を調和させた有機的複合空間の創造を目標とした、芝浦港南地域整備構想,設定された地域は、芝浦アイランド・港南リバーサイド・重箱堀ウォーターフロントの三か所で、さらに、竹芝・,日の出・芝浦の各ふ頭再開発地区およびその後背地を、アクションエリアに準じる地区とした。 / 「港区芝浦港南地域整備基本計画」策定
新修港区史 ((四) 芝浦食肉市場の推移と現況)

(四) 芝浦食肉市場の推移と現況 港区にある中央卸売市場食肉市場の実績を、ここでは簡単にふれてみたい,都市の台所―芝浦食肉市場の内部 / (四) 芝浦食肉市場の推移と現況
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (日露戦争後の芝浦埋立と工業地帯の形成)

日露戦争後の芝浦埋立と工業地帯の形成 明治一二年(一八七九)の田口卯吉による東京港の国際貿易港化構想以来,古川河口の芝金杉町に日本初の民間機械工場となる田中製造所を開設(電信機製造により官需で成長、明治三七年に芝浦製作所,さらに、明治後期の芝浦湾岸埋立は日露戦争後の京浜工業地帯形成の基盤となった。,明治三九年(一九〇六)からの隅田川改良工事による浚渫(しゅんせつ)土を利用して芝浦湾岸の埋立地が整備され,芝浦には日之出物揚場などの港湾設備と結びついた工場・倉庫街が発展し、隅田川以東の本所、深川などの地域に / 日露戦争後の芝浦埋立と工業地帯の形成
新修港区史 ((1) 企業の勃興と芝浦工業地帯の形成)

(1) 企業の勃興と芝浦工業地帯の形成 明治十年代末期から二十年代前半にかけて、周知のように鉄道業と,とくに、明治の後半期において、芝浦を中心とする芝区の臨海地域に工場が増加し、集団化する傾向を示すが、その / (1) 企業の勃興と芝浦工業地帯の形成
新修港区史 ((7) 沿岸漁業の衰退(芝浦漁業の不振))

(7) 沿岸漁業の衰退(芝浦漁業の不振) 【芝浦漁業の不振】 大消費地である江戸市街の近くに立地し、,明治十一年から『東京府統計書』により芝浦漁業の概況が数的に明らかになるが、十一年当時、芝金杉七カ町および,江戸期の正徳年間の記録では、芝の漁船は、金杉浦に一二六艘、本芝浦に一一九艘、あわせて二四五艘をかぞえており,収益 明治 11年 明治 15年 明治 11年 明治 15年 明治 11年 金杉浦 本芝浦,  表6 漁戸職業別表 漁業専門 漁業漁具兼業 漁具専業 漁業魚売商兼  合  計 金杉浦 本芝浦 / (7) 沿岸漁業の衰退(芝浦漁業の不振)
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (スポーツの濫觴の地となった芝浦埋立地)

スポーツの濫觴の地となった芝浦埋立地 隅田川口改良第一期工事として、明治三九年(一九〇六)から大正二年,(一九一三)にかけて芝浦の海岸は埋め立てが進み、広大な埋立地が完成した。  ,第三回極東競技大会は、大正六年五月八日から一二日まで、日本・中国・フィリピンの選手たちにより芝浦埋立地,こうして大正一〇年三月、同地に芝浦球場が開場する。,こうして同年九月九日、ついに芝浦球場で初試合に臨むこととなった。 / スポーツの濫觴の地となった芝浦埋立地
図説 港区の歴史 (第8節 芝浦から発信される「都市のイメージ」)

第8節 芝浦から発信される「都市のイメージ」 東京には、幻の築港計画がありました。  ,世界に冠たる近代都市を目指す明治政府は、現在の港区芝浦周辺に広がる海域にその主港を構えようと考えました / 第8節 芝浦から発信される「都市のイメージ」
新修港区史 ((2) 不況下の失業対策と労働問題)

そこに芝区のうちでも、とくに芝浦の労働者たちにたいする福祉施設が設けられた大きな理由があった。  ,これら労働者を対象に昭和二年芝浦埠頭に市設の芝浦食堂が設けられ、昭和七年田町食堂ができて、安い値段で食事,震災復興当時の芝浦職業紹介所 【芝浦宿泊所】 当時芝浦方面には港湾の建設工事従事者および沖仲士など,職を求める人々の多くが芝浦に集まってきた。,【芝浦仲仕休憩所】 また、芝浦が港湾労働者の重要地点となったため、昭和十四年(一九三九)二月には、東京港内
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (内湾漁業の痕跡)

この辺りの海浜部は古くから芝浦と呼ばれてきたが、芝浦を目にした田中七右衛門知次は、江戸近郊で金屋を営む,本来芝浦は、汐留地区の北端辺りの沖合から品川沖付近までの広範囲の地域を指す。,金杉浦(現在の芝大門二丁目、浜松町二丁目、芝一~二丁目)・本芝浦(現在の芝四~五丁目、芝浦一丁目)はその,本芝浦金杉浦の漁業の衰退は町の姿も変えた。,昭和四五年、本芝浦に残されていた掘割が埋め立てられ、一部は公園となった。
新修港区史 ((3) 震災後の工業)

(3) 震災後の工業 震災後の港区工業の特色は、いうまでもなく芝浦埋立地に顕著な発達をみせた芝浦臨海工業地帯,好況時代、ここに工場を設ける会社が次第に増加していき、関東大震災後は多くの工場がここに集まってきて、芝浦,、日本電気株式会社とその芝浦分工場などがあった。,1 東京地方専売局芝工場(煙草)芝浦分工場(昭和七年四月廃止)赤羽分工場(昭和七年九月廃止)   2, 東京瓦斯株式会社芝工場  南浜町一八   3 東京市電気局芝浦発電所  芝浦埋立地 月見町三ノ一
新修港区史 (離職者対策と施設)

機械工製図工補導所 名  称 所 在 地 定  員 取  扱  科  目 修了期間 東京市芝浦機械,工製図工補導所 芝区芝浦三ノ一 東京市 電気局芝浦工場内 男女 一〇〇名   機械化(旋盤、仕上、,同   職業補導所 名  称 所 在 地 定  員 取  扱  科  目 修了期間 東京市芝浦職業,補導所 芝区芝浦三ノ一 東京市 電気局芝浦工場内 男女  五〇名   謄写印刷、タイプライチング
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (工場の様相)

例えば、芝浦三業地で著名な芝浦一丁目の付近には、梁瀬自動車の芝浦工場、東京瓦斯の製造所、西芝浦四丁目には,塩水港精糖の東京工場、沖電気の芝浦工場などが建設されていた。
新修港区史 (支所)

また、この改革の結果、これまで高輪支所で一応用のたりていた芝浦地区住民は、高輪支所と本庁の双方へ足を運,前述のように、区議会は三十三年の出張所廃止に際し、将来、芝浦地区に支所を設けるよう要請している。,だが、四十年の改革後、区議会は改めてこの問題を取り上げ、四十四年の第一回定例会において、芝浦港南支所設置,この声を受けて、企画室は四十四年十一月、「芝浦地区窓口設置調査報告書」を作成した。,その後、理事者は、この報告書を一つの素材として、庁舎の構想、用地の選定などにあたってきたが、芝浦港南支所
港区史 第7巻 通史編 現代 中 (公共公益施設)

特に、幼稚園・小中学校については、芝浦港南地区以外での人口減少、芝浦港南地区での人口増加に対応した適正配置,こうした状況を受け、平成に入り、幼稚園・小中学校の統廃合が行われたが、芝浦港南地区では、台場地区の副都心開発,こうした点を踏まえ、区では芝浦四丁目の芝浦アイランド事業の公共施設として、田町駅から芝浦埠頭までの街路
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (民間業務施設)

芝浦港南地区には、昭和一一年(一九三六)築で、現在では都内唯一となった木造見番(花柳界の取り次ぎ事務所,)建築であり、戦後は港湾関係者の宿泊所「協働会館」として使用されていた港区立伝統文化交流館(芝浦一丁目,埋立地で工場が多い芝浦港南地区の歴史を伝える建物としては、昭和四年(一九二九)築の日本電気計器検定所別館,2号館(旧東京電灯株式会社社屋、芝浦四丁目)が残されている。
新修港区史 ((5) 震災余話)

アメリカの救援物資を満載した船が、芝浦の日の出桟橋に着岸しようとして芝浦に入ってきたところ、海底が浅く,このことは、やがて東京港を芝浦に設けるという大きな問題となって発展する直接の原因となったといってよい。
図説 港区の歴史 (漁業補償以前)

芝一丁目・四丁目(本芝浦・金杉浦)に居住した漁民は、この湾奥で漁業を長く営んできました(図7-7-3),中世には、のちの本芝浦・金杉浦につながる漁村が沿岸に形成され、江戸時代に入ると両浦は将軍家御菜(みさい,明治初期の詳しい状況を知る手がかりはほとんどみられませんが、明治14年(1881)には本芝浦・金杉浦に,明治34年(1901)には、本芝浦・金杉浦の漁業者は150戸に増えました。,芝浦に開設された仮設市場(図7-7-5)は、その象徴といえるかもしれません。
新修港区史 ((2) 東京港開港)

さらに市会に星亨の登場によって、築港計画は軌道にのり、月島の埋立ても完成し、芝浦から築地にかけて横浜をしのぐ,アメリカの救援物資を積んだ船が芝浦について荷をおろそうとしても、桟橋まで、船足が浅くてどうにも近づけなかった,もはや、横浜港を中継ぎ港としている時代ではないとして、東京開港を芝浦にという意見が強力におし進められた,一方、芝浦は大船横付けの必要から、その後港湾施設が着々として完成していき、昭和九年までに日の出桟橋、芝浦岸壁,【芝浦岸壁】 芝浦岸壁(海岸三丁目)は延九一〇メートルの鉄筋コンクリート潜函構造のもので、昭和七年二月完成
図説 港区の歴史 (保管倉庫業の発生)

保管倉庫業の発生 近代東京港が形成されるに従って、芝浦一~四丁目周辺の埋立地の立地は変化し、それによる,埋立地の新設にともなってその領域は拡がり、芝浦一〜四丁目の新設埋立地にも保管倉庫群が建設されました。,1885)創業の東京瓦斯(がす)会社(現在の東京ガス株式会社)のガスプラントが建設されるなど、初期の芝浦,図7-8-2① 芝浦運河と東京港の船溜まりの風景 『昭和44年東京倉庫運輸株式会社営業案内』  
港区史 自然編 (関係者一覧)

日~)      有賀謙二  麻布地区総合支所長(平成30年4月1日~)      新井樹夫  芝浦港南地区総合支所長,     堀二三雄  前麻布地区総合支所長(~平成30年3月31日)      星川邦昭  前芝浦港南地区総合支所長,(平成30年4月1日~令和2年3月31日)      浦田幹男  元芝浦港南地区総合支所長(~平成30
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (2:海岸(一丁目))

2:海岸(一丁目) 海岸二~三丁目は芝浦港南地区に属するが、ここでまとめて扱う。,そこから、大正八年に完成した埋立地が芝浦町一丁目、昭和二年(一九二七)に完成した埋立地が竹芝町として設定,戦後、港区の成立によりこれらの町域は芝海岸通一〜六丁目(五・六丁目は現在の芝浦港南地区)となったが、住居表示,また、平成七年には新交通システム「ゆりかもめ」(東京臨海新交通臨海線)の日の出駅、竹芝駅、芝浦ふ頭駅が
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (改良工事の進展と震災の影響)

第一期工事では越中島に加え(のちに月島へ変更)、芝浦での埋め立て工事が進められた。,この埋め立てによって日之出物揚場(ものあげば)が芝浦に整備されたことで、それまで横浜で荷役していた小規模,明治四〇年(一九〇七)に海岸通二丁目で始まった港区域の埋め立ては、昭和六年(一九三一)までに芝浦や西芝浦,隅田川口改良工事の計画が変更され、五〇〇〇トン級の船舶が繋留できる施設として、昭和八年(一九三三)に芝浦岸壁
図説 港区の歴史 (関東大震災と空襲)

東京港の修築は、明治初期からの課題でしたが、隅田川口の浚渫(しゅんせつ)土などを用いて芝浦や豊洲などの,日の出・竹芝桟橋や芝浦岸壁などが段階的につくり上げられ(図6-1-4)、昭和16年(1941)に東京港,そして、新橋や芝浦の花柳界も再び発展していきました。  ,  図6-1-4「東京港の一部芝浦」『大東京写真帖』 国立国会図書館デジタルコレクション,昭和初期に刊行された日本各所を紹介する写真集で、東京湾の築港計画がほとんど完成しようとするころの芝浦
図説 港区の歴史 (東京築港)

その後、明治39年(1906)からは、隅田川口改良工事が進められ、芝浦や現在の江東区域の埋立地が次々と,14年(1925)に日の出桟橋が完成し、3,000t級の船舶繋留が可能となり、昭和7年(1932)には芝浦岸壁,また、芝浦の埋立地には、関東大震災以前から工場が集積されていましたが、この流れは震災以降加速されました,三田四国町に本社工場を持っていた日本電気は、大正13年(1924)12月、同15年5月と相次いで芝浦二丁目,図6-12-2 巨船が横着けになる芝浦港『大東京写真帖』 国立国会図書館デジタルコレクションより転載
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (関係者一覧(令和四年三月現在))

~)      冨田 慎二  麻布地区総合支所長(令和三年四月一日~)      長谷川浩義  芝浦港南地区総合支所長,     堀 二三雄  元麻布地区総合支所長(~平成三〇年三月三一日)      新井 樹夫  前芝浦港南地区総合支所長,(令和二年四月一日~令和三年三月三一日)      星川 邦昭  元芝浦港南地区総合支所長(平成三〇,年四月一日~令和二年三月三一日)      浦田 幹男  元芝浦港南地区総合支所長(~平成三〇年三月三一日
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (関係者一覧(令和四年三月現在))

~)      冨田 慎二  麻布地区総合支所長(令和三年四月一日~)      長谷川浩義  芝浦港南地区総合支所長,     堀 二三雄  元麻布地区総合支所長(~平成三〇年三月三一日)      新井 樹夫  前芝浦港南地区総合支所長,(令和二年四月一日~令和三年三月三一日)      星川 邦昭  元芝浦港南地区総合支所長(平成三〇,年四月一日~令和二年三月三一日)      浦田 幹男  元芝浦港南地区総合支所長(~平成三〇年三月三一日
図説 港区の歴史 (関係者一覧(令和2年12月現在))

)      有賀 謙二  麻布地区総合支所長(平成30年4月1日~)      新井 樹夫  芝浦港南地区総合支所長,     堀 二三雄  前麻布地区総合支所長(~平成30年3月31日)      星川 邦昭  前芝浦港南地区総合支所長,(平成30年4月1日~令和2年3月31日)      浦田 幹男  元芝浦港南地区総合支所長(~平成
新修港区史 ((1) 大正初期の産業経済)

芝浦製作所 芝区金杉新浜町   明治八年田中久重の創立、機械製作所として最古の一つ。,大正三年当時では、まだ芝浦一帯が、工場地帯となる前の初期の段階で、こうした状態が、欧州大戦による好況とともに,、芝浦方面が物資輪送の面で重要な位置を占めるようになると、芝浦は徐々に発展の様相をみせ、工場が次第に増加
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (芝雑魚場)

吉田伸之『成熟する江戸』(講談社、2002)をもとに作成    芝雑魚場のほど近くには金杉浦と本芝浦,金杉浜町(現在の芝一丁目・芝浦一丁目)は浜辺に面する町であるが、町の南に網干場があり、小魚が名産であることから,漁船所持者が集住し(出口 二〇一一)、この辺りは漁業集落としての景観が見られたと考えられる(金杉浦と本芝浦,元治元年(一八六四)一一月一日付けの本芝浦と金杉浦の漁師頭などによる書上には、慶長六年(一六〇一)、本芝村,金杉浦・本芝浦と同じく、深川猟師町(現在の東京都江東区清澄、佐賀・永代辺り)も江戸市中の漁業集落であるが
新修港区史 (田中機械製作所)

田中機械製作所 【田中久重】 港区における近代的工業勃興期に重要な地位を占めるのが、この田中機械製作所、のちの芝浦製作所,競争入札という形で崩れていくと経営も苦しくなり、同二十六年十一月債権者の三井銀行に譲渡され、以後名称を芝浦製作所,芝浦製作所(明治35年当時)
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (区民参画組織の発足)

区民参画組織の発足 基本計画策定時の地域懇談会が契機となり、平成一八年六月以降、芝・麻布・赤坂・高輪・芝浦港南,・青山地区タウンミーティング」  高輪地区総合支所……「タウンミーティングTAKANAWA」  芝浦港南地区総合支所
港区史 第2巻 通史編 近世 上 (関係者一覧(令和三年五月現在))

令和二年八月一日~)   冨田 慎二  麻布地区総合支所長(令和三年四月一日~)   長谷川浩義  芝浦港南地区総合支所長,令和三年三月三一日)    堀 二三雄  元麻布地区総合支所長(~平成三〇年三月三一日)    新井 樹夫  前芝浦港南地区総合支所長,(令和二年四月一日~令和三年三月三一日)    星川 邦昭  元芝浦港南地区総合支所長(平成三〇年四月一日,~令和二年三月三一日)    浦田 幹男  元芝浦港南地区総合支所長(~平成三〇年三月三一日)    
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (関係者一覧(令和三年五月現在))

令和二年八月一日~)   冨田 慎二  麻布地区総合支所長(令和三年四月一日~)   長谷川浩義  芝浦港南地区総合支所長,令和三年三月三一日)    堀 二三雄  元麻布地区総合支所長(~平成三〇年三月三一日)    新井 樹夫  前芝浦港南地区総合支所長,(令和二年四月一日~令和三年三月三一日)    星川 邦昭  元芝浦港南地区総合支所長(平成三〇年四月一日,~令和二年三月三一日)      浦田 幹男  元芝浦港南地区総合支所長(~平成三〇年三月三一日)
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (第二項 主題図の社会地図)

また、山手線の東側にあたる芝浦四丁目や港南三・四丁目も人口密度が高くなっている。,比率が高い地域は、麻布地区と芝浦港南地区に集中していた。,比率が高い地域は、芝地区と芝浦港南地区に集中している。,芝浦港南地区において高い。,芝浦港南地区および高輪地区において、比率が高い地域が集中していた。
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世 (関係者一覧(令和三年三月現在))

)      有賀 謙二  麻布地区総合支所長(平成三十年四月一日~)      新井 樹夫  芝浦港南地区総合支所長,     堀 二三雄  前麻布地区総合支所長(~平成三十年三月三十一日)      星川 邦昭 前芝浦港南地区総合支所長,(平成三十年四月一日~令和二年三月三十一日)      浦田 幹男 元芝浦港南地区総合支所長(~平成三十年三月三十一日
図説 港区の歴史 (近代木造建築物の保存と活用)

近代木造建築物の保存と活用 芝浦一丁目11番に、平成21年(2009)10月27日、港区指定有形文化財,建物は木造2階建てで、元は芝浦花柳界の見番(三業組合事務所)でした。,がともないましたが、竣工後の姿は、都内に残された唯一の見番として建てられた木造建築物として趣を保ち、芝浦
新修港区史 (芝園橋職安から始まった都内の「職よこせ」戦術)

港湾労働者に不況対策のしわよせ】 当時相ついで実施された不況対策でもっともしわよせをこうむったものに、芝浦,戦後、芝浦の繋岸施設がアメリカ軍に接収された事情もあって、日本の貨物はすべて艀荷役による以外に積卸しの,東京港の中心だった芝浦は、施設接収のために、その位置づけが大きく後退していた。  ,ともあれ、この芝浦における「職よこせ」闘争を発火点として、新しい労働攻勢がほぼ全都にわたって展開されていったのである
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (関係者一覧(令和五年三月現在))

令和二年八月一日~)   冨田 慎二  麻布地区総合支所長(令和三年四月一日~)   長谷川浩義  芝浦港南地区総合支所長,令和三年三月三一日)   堀 二三雄  元麻布地区総合支所長(~平成三〇年三月三一日)   新井 樹夫  前芝浦港南地区総合支所長,(令和二年四月一日~令和三年三月三一日)   星川 邦昭  元芝浦港南地区総合支所長(平成三〇年四月一日,~令和二年三月三一日)   浦田 幹男  元芝浦港南地区総合支所長(~平成三〇年三月三一日)   
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