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港区/デジタル版 港区のあゆみ

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港区史 第2巻 通史編 近世 上 (西久保通・三田通沿いの町)

西久保通・三田通沿いの町 西久保通・三田通は虎ノ門外から愛宕山の西側を南下し、赤羽橋を渡って三田に出,さらに赤羽橋の南方には三田一~三丁目(現在の三田二~三丁目)および芝通新(しばとおりしん)町(現在の芝五丁目
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (芝区北部の変化――武家地、寺社地、町人地の混在から工業地帯へ)

加えて西郷隆盛と勝海舟の会見地となった蔵屋敷、抱屋敷、町並屋敷を、また久留米藩有馬家は水天宮のあった赤羽橋,前者の例には、収公された赤羽橋の久留米藩有馬家上屋敷の跡地に明治八年設置された工部省製作局(機械製作工場
新修港区史 ((2) 大区小区制の施行)

ハ芝金杉橋ヨリ南高輪迄、芝二本榎ヨリ白金台町十町目、西ハ白金村今里村下中渋谷村新堀川筋同一ノ橋、北ハ赤羽橋迄, 第二大区(中二五小区)  東ハ溜池ヨリ西久保飯倉通、南ハ赤羽橋古川通、西ハ渋谷宮益町青山通、北
港区史 第2巻 通史編 近世 上 (火の見櫓と水天宮)

屋敷の北側には新堀川(古川)が流れ、増上寺裏門方面に渡る赤羽橋が近くに架けられていた。,赤羽橋は、「御府内備考」によると延宝(えんぽう)三年(一六七五)に架けられた。
新修港区史 (【芝田町界隈】)

三、四丁目の間は、いわゆる札之辻と称し、三田寺町や四国町、赤羽橋へと通じる道路の入口となる。,【新堀川と河岸場】 次に、城南の中央部を流れる新堀川には下流の東海道の金杉橋から始まり将監橋、赤羽橋(,先の金杉橋際の北金杉河岸と南金杉河岸のほか、薩摩河岸と俗称する新堀河岸、赤羽橋際の赤羽河岸、そして、中,金杉橋、将監橋周辺については、既述したとおりで、次の赤羽橋の東南に芝⑫の松本町があり、中ノ橋から一ノ橋,赤羽橋を渡る道を西方に向かうと、三田①の町々を通り、三ツ俣で一方は東海道の札之辻へ、他方はさらに聖坂を
港区史 第6巻 通史編 現代 上 (第三項 麻布地区の町域)

平成一二年(二〇〇〇)には都営地下鉄大江戸線の開通に伴い赤羽橋駅が開業している。
港区史 第1巻 通史編 原始・古代・中世 (古代の官道)

古代の官道 高輪台から三田台を通り、聖坂を下り切った辺りから北上し、赤羽橋、飯倉を過ぎて虎ノ門付近に
新修港区史 ((2) 心光保育園の設立と区営への移管)

(2) 心光保育園の設立と区営への移管 【私立心光保育園】 昭和三十一年(一九五六)七月、赤羽橋河畔
港区史 第2巻 通史編 近世 上 (屋敷内の配置)

屋敷の外、北東(図の右上)方向に赤羽橋がある。
港区史 第2巻 通史編 近世 上 (港区域内の神社)

なお、大名屋敷や旗本屋敷内にも勧請された神社があって、赤羽橋の久留米藩有馬家上屋敷内の水天宮、虎ノ門外
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (日比谷焼打事件)

から芝方面に向けて移動した焼き打ちの波が、芝大門、宇田川町、露月町、愛宕下町、御成門、芝園橋、金杉橋、赤羽橋
図説 港区の歴史 (参勤交代と勤番武士)

赤羽橋付近にあった久留米藩上屋敷に詰めた彼らの勤務はごくわずかなもので、時間は有り余っていました。
新修港区史 ((3) 震災後の工業)

このほか、古くから三田四国町辺一帯、古川の将監橋――赤羽橋間の南岸諸町、芝新堀町、松本町、三田四国町なども
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (区内交通の展開)

区域内では、新橋や赤羽橋などいくつかの停留所が拠点となるとともに、青山や三田には車庫が設置された。
新修港区史 (東京都済生会中央病院付属乳児院)

である済生会は、恩賜財団として明治四十四年(一九一一)に設立され、その中央病院は大正五年五月に、当時の芝赤羽橋畔
新修港区史 ((4) 米騒動と社会福祉事業)

翌年一月には芝区赤羽町一番地市電赤羽橋交差点側にも赤羽日用品小売市場がもうけられた。
新修港区史 ((5) 歴史時代)

には、丸の内谷のところで被害率五~一五%、溜池谷の泥炭地で一〇~三五%、古川谷の泥炭地、ことに一ノ橋~赤羽橋
港区史 第5巻 通史編 近代 下 (商店街の拡大と公設市場)

港区域内の東京市設小売市場には、赤羽橋市場(芝区)と霞町市場(麻布区)があり、白米や麦、豆、乾物、茶、
新修港区史 (東麻布一~三丁目)

西南端の赤羽橋は土器材料の赤埴(あかはに)(赤土)がなまったものともいう。,【永井町】 その赤羽橋にあった飯倉続芝永井町代地(一丁目一〇・一一番)と芝永井町代地(一丁目二六番東南部
港区史 第4巻 通史編 近代 上 (第二項 明治後期の芝区)

江戸城桜田門外から愛宕山西側を南下して神谷町、飯倉の坂を通り、赤羽橋で古川を渡り、三田、高輪を経て五反田方面
図説 港区の歴史 (日比谷焼打事件)

や警察署への襲撃を続けながら、芝大門、宇田川町、露月(ろげつ)町、愛宕下町、御成門、芝園橋、金杉橋、赤羽橋
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (花見と名勝)

増上寺境内のうち、芝切通より赤羽橋方向に向かう道の左右に桜が多く植えてあるといい、他に彼岸桜の名所が二
新修港区史 (【麻布界隈】)

【麻布界隈】 水上の通路である新堀川からは、先の赤羽橋を通過する脇往還の飯倉、西久保道のほか、一ノ橋
港区史 第3巻 通史編 近世 下 (芝松本町の町入用)

芝松本町一丁目と同二丁目は、増上寺の南西にある赤羽橋を南に渡った場所に位置する町である(図4-1-3-
港区史 自然編 (2)谷地形の分布)

古川の谷は古川橋付近で北へ向かい、一之橋付近で東へ向きを変え、赤羽橋付近で東京湾岸低地に出る(写真1-
新修港区史 ((2) 市区改正事業――改良水道と築港計画)

赤坂桧町、麻布三河台町、同市兵衛町二丁目に至り、三線に分かれ本線は仲町・飯倉六丁目・三丁目・五丁目・赤羽橋
港区史 第2巻 通史編 近世 上 (別院(1~8))

造営されることになった際、心光院の場所が近接していたため、三縁山の外境内と称して増上寺別院のまま、芝赤羽橋際
図説 港区の歴史 (コラム〈調べる〉1964東京オリンピック聖火リレーコースをたどって)

沖積低地が広がり、1964年東京オリンピック開催の頃は、天現寺橋・古川橋間の南側には町工場が並び、二の橋・赤羽橋間
新修港区史 (浜松町一・二丁目)

深い軟弱地層をもつ谷底地形は、現在ではまったく埋没されているが、本町域南端よりもさらに南を赤羽橋付近から
港区史 自然編 (2)植生の歴史的移り変わり)

品種)、ヤナギなら「〓灑柳(うなりやなぎ) 麻布善福寺」などがあげられ、ハスも「赤坂溜池」と「増上寺赤羽橋内
新修港区史 ((三) 押し出された〝チンチン電車〟)

金杉橋―浜松町一丁目―新橋    第二系統――三田―御成門―田村町一丁目    第三系統――札ノ辻―赤羽橋
新修港区史 (【開帳】)

不明 二榎 承教寺 祖師 差免帳は次年 45 1748 5・10~6・晦 50日 芝 赤羽橋稲荷
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