小田原衆所領役帳にみる港区域

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 さて、その子二代北条氏綱は、父の遺志を継いで、関東に覇権を確立すべく北条氏を名乗り、頻りに東に出兵して次第に支配地域を広げていった。その過程で、永正十七年(一五二〇)から弘治元年(一五五五)にかけて後北条氏の拡大していく支配領域で順次検地を実施し、北条家臣団の軍役などの賦課の基本台帳としたのが「後北条氏所領役帳」、あるいは「小田原衆所領役帳」「北条家分限帳」などと呼ばれているものである(以下、「小田原衆所領役帳」と表記)。原本は失われており、現在の写本の奥書から正本は永禄二年(一五五九)の三代北条氏康(一五一五~一五七一)の時期に完成したことが窺える。小田原衆(三四人)、御馬廻(おうままわり)衆(九四人)、玉縄衆(一八人)、江戸衆(一〇三人)、松山衆(一五人)、伊豆衆(二九人)、津久井衆(五七人)、諸足軽衆(二〇人)、職人衆(二六人)、他国衆(二八人)、社領(一三社)、寺領(二八寺)、御家門方(一七人)、御家中役之衆(一七人)、半役被仰付衆(三二人)、小机衆(二九人)など一六分類で、一二衆五六〇氏の知行地の地名と所領貫高(かんだか)が記載されている。後北条氏の所領役帳から現在の港区域に該当すると思われる箇所を上げると、以下の通りとなる。
 
 御馬廻衆
  一、狩野大膳亮
    五捨三貫弐百文 江戸
              阿佐布
  一、大草左近太夫
    参拾九貫五百四拾文  飯倉之内前引
 江戸衆
  一、森弥三郎
    弐七貫五百四十文 江戸
              国府方
  一、興津加賀守   
    卅貫七百文      江戸 桜田平尾分 元板橋知行分
    拾弐貫九百四拾六文  小日向分 元太田源十郎知行
  一、嶋津孫四郎
    三拾八貫壱百五拾文  飯倉内桜田善福寺分
    拾九貫九百文     金曾木内 法林院分・金剛寺分
  一、飯倉弾正忠
    弐貫八百七拾弐文   飯倉之内 
  一、太田新六郎寄子分
    拾四貫八百五拾文   江戸飯倉内
              小早川同人
    弐拾貫文       銀(しろかね) 新井分(※公文書館本により追加)
    三貫七百文      三田内箕輪 守屋分
    此外同心方
  一、太田源七郎
    拾九貫文       江戸廻 桜田内西村分
 嶋津衆
   太田新次郎
   弐貫三百文      桜田池分
   嶋津弥七郎 元江戸小三郎
   四貫八百四拾文    三田坂間分
 
 馬廻衆狩野大膳亮(だいぜんのすけ)の「阿佐布」は麻布、同大草左近太夫(さこんだいぶ)および江戸衆飯倉弾正忠(だんじょうのちゅう)の「飯倉之内前引」は飯倉から芝にかけての地域、江戸衆森弥三郎の「江戸国府方」は港区内の笄(こうがい)の語源は国府方(こうかた)に由来し、麹町も国府路(こうじ)から転訛(てんか)したと『港区史』(一九六〇)で説明しているのに従うべきであると思われるから、麻布笄町に比定すべきであろう。同興津加賀守の「江戸桜田平尾」三〇貫七〇〇文分の「桜田内平尾」は、麻布広尾である。また、「小日向」分は、桜田の内にある太田源十郎の知行分だったところで、それ以前は小日向氏の支配地だったという意味なので、明らかに港区内とみることができよう。
 江戸衆嶋津孫四郎の「飯倉内桜田善福寺」は麻布善福寺付近、同じく「金曾木」は金杉橋付近を指している。飯倉弾正忠の「飯倉内」は、麻布飯倉の彼の本貫地である。嶋津衆太田新六郎寄子分二〇貫文として記載される「銀」は白金、また三貫七〇〇文分と記す「三田内箕輪」は三田付近の地が比定されている。太田新次郎の「桜田池」は、溜池付近とされている。嶋津弥七郎の元江戸小三郎分「三田坂間分」は、江戸氏庶流金杉氏の旧領で三田周辺地域に比定されよう。