後北条氏被官の知行地と軍役

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 「小田原衆所領役帳」に記載される港区域の地名とその給人の名前は以上であるが、ここからどのようなことがわかるのだろうか。所領役帳に記載される港区域の給人の最初に登場する狩野大膳亮は、「阿佐布」すなわち港区麻布の地域を北条氏から所領として給されていたことがわかるが、狩野の給地は麻布だけではない。阿佐布の五三貫二〇〇文という記載は、その地の生産高のすべてという意味ではなく、阿佐布に割り当てられた軍役の高である。狩野大膳亮は馬廻衆として、ほかにも伊豆国蓮台寺で六〇貫文、吉見郡高本小八林(たかもとこやつばやし)(現在の埼玉県熊谷市)で二〇貫文、三浦半島の和田で元南条玄蕃(げんば)の知行分四一貫文、元福室知行分の西郡(現在の神奈川県小田原市)苻川で一七貫文、元桑原又三郎知行分として伊豆国大川(現在の静岡県東伊豆町)で二〇貫文、元田中知行分として同国小坂(おざか)之内(同伊豆国市)で四〇貫文、中郡長谷(現在の神奈川県厚木市)で一九〇貫二三〇文の知行が記載されている。よって、一円的な所領支配の形態ではなく、鎌倉期の武士のような散在所領の形態である。国衆は散在的な知行地の所有形態だが、後北条氏全体の支配は一円的支配形態で所領を拡大していったことが理解できる。狩野大膳亮の「阿佐布」は、現在の港区麻布の地域に該当するので、後北条氏の被官である狩野が港区地域に所領があったことは間違いがない。軍役と所領貫高の関係性について、後北条氏の場合、永禄六年九月十六日付で岩槻の太田氏が小熊総七郎に宛てた軍勢催促状によれば、岩淵下郷領家での一八貫五〇〇文の所領貫高に対する軍役は、歩卒の徒歩(かち)立ち足軽二名。一人は旗指物を持つ足軽で、旗は縦六尺五寸、横四尺二寸、持手の部分が金銀で、小熊氏の家紋を入れること、もう一人は鑓(やり)持ちで、鑓は柄の長さ二間、口金(くちがね)は金銀の金具、いずれも具足着用で皮陣笠をかぶるように指示されている。さらに、当主小熊総七郎本人は、馬上で大立物(おおたてもの)(鍬形(くわがた)など兜の前面につける飾り)付き兜、手蓋(てがい)と面肪(めんぼう)付き甲冑を着用することが定められている。一騎二人の合計三人役である。
 岩槻城主太田氏の家老宮城氏は、二八四貫余だったので、当主宮城泰業を含む馬上の侍である騎兵八騎と徒歩鉄砲侍二人、徒歩弓侍一人の以上一一名と、旗持・鑓持など二五名を合わせて三六名の軍役であった。所領の貫高と軍役が一定の比率で後北条氏の家臣や国衆に賦課されていたとしたら、港区内に地名が比定されている各地からの軍役としての兵数も概ね見当がつくのだが、じつは軍役賦課は一律なものであったわけではない。
 狩野大膳亮が後北条氏から軍役を賦課された場合、五一三貫四三〇文に対していったい何人くらいの軍役が賦課されたのだろうか。阿佐布だけの五三貫余からだけならおそらく小熊氏や宮城氏の例から推測して、軍役としては三騎徒歩卒五人の八人役くらいであろうが、全体の知行高なら六十数名の軍役となったと思われる。
 研究が進んでいる武田氏の軍役の例でみてみると、同じ所領規模でも甲斐の武士より信濃の武士の軍役が重く、また大身の知行を持つ武士や武田一門の方が、小身の武士より貫高当たりの軍役が軽い傾向にあることが判明している。つまり、本国の武士の方が、征服地の新来の武士より軍役が軽く、もう一つには、単純な貫高の割合で軍役が決まるのではなく、知行高の多い武士の方が、負担割合が軽いという傾向がみられるということになる。北条氏の場合でも同様な傾向が想定されるが、軍役は最低限度の兵数を規定するので、奉公を認められるためには、実際の合戦に際しては、軍役の規定以上に兵数を出すことも多くあったのである。
 貫高制で表記される知行地は、その土地からいったいどのくらいの米価換算の年貢が収納できるかということであるから、後北条氏の場合、田一段あたり五〇〇文、畑には一段あたり一五〇~二〇〇文を基準として標準貫高と設定していた。また、後北条氏では銭一〇〇文を一斗二~四升に換算していたので、銭か米の現物で年貢は納付するが、その取れ高に応じた軍役を領主は後北条氏から賦課されていたわけである。阿佐布の五三貫二〇〇文は、当時の一文が現在の七〇~二五〇円くらいの幅で米価換算されているから、五万三二〇〇枚の銭が一文一〇〇円と計算しても五三二万円になる。また、後北条氏領内では永楽通宝が良銭とされていた。豊臣秀吉の太閤検地により荘園制が解体され、貫高制から石高制という収納される米の容量で土地の生産性を表示するようになるが、一般には一貫は二石換算とされている。例外としては、仙台藩領の一貫一〇石というものもある。後北条氏の所領内に課せられた、田一段につき五〇〇文という標準貫高は、穏当な賦課といえるだろう。
 

図2-3-1 永禄年中江戸絵図
西尾市岩瀬文庫所蔵