岩槻城主太田氏の家老宮城氏は、二八四貫余だったので、当主宮城泰業を含む馬上の侍である騎兵八騎と徒歩鉄砲侍二人、徒歩弓侍一人の以上一一名と、旗持・鑓持など二五名を合わせて三六名の軍役であった。所領の貫高と軍役が一定の比率で後北条氏の家臣や国衆に賦課されていたとしたら、港区内に地名が比定されている各地からの軍役としての兵数も概ね見当がつくのだが、じつは軍役賦課は一律なものであったわけではない。
狩野大膳亮が後北条氏から軍役を賦課された場合、五一三貫四三〇文に対していったい何人くらいの軍役が賦課されたのだろうか。阿佐布だけの五三貫余からだけならおそらく小熊氏や宮城氏の例から推測して、軍役としては三騎徒歩卒五人の八人役くらいであろうが、全体の知行高なら六十数名の軍役となったと思われる。
研究が進んでいる武田氏の軍役の例でみてみると、同じ所領規模でも甲斐の武士より信濃の武士の軍役が重く、また大身の知行を持つ武士や武田一門の方が、小身の武士より貫高当たりの軍役が軽い傾向にあることが判明している。つまり、本国の武士の方が、征服地の新来の武士より軍役が軽く、もう一つには、単純な貫高の割合で軍役が決まるのではなく、知行高の多い武士の方が、負担割合が軽いという傾向がみられるということになる。北条氏の場合でも同様な傾向が想定されるが、軍役は最低限度の兵数を規定するので、奉公を認められるためには、実際の合戦に際しては、軍役の規定以上に兵数を出すことも多くあったのである。
貫高制で表記される知行地は、その土地からいったいどのくらいの米価換算の年貢が収納できるかということであるから、後北条氏の場合、田一段あたり五〇〇文、畑には一段あたり一五〇~二〇〇文を基準として標準貫高と設定していた。また、後北条氏では銭一〇〇文を一斗二~四升に換算していたので、銭か米の現物で年貢は納付するが、その取れ高に応じた軍役を領主は後北条氏から賦課されていたわけである。阿佐布の五三貫二〇〇文は、当時の一文が現在の七〇~二五〇円くらいの幅で米価換算されているから、五万三二〇〇枚の銭が一文一〇〇円と計算しても五三二万円になる。また、後北条氏領内では永楽通宝が良銭とされていた。豊臣秀吉の太閤検地により荘園制が解体され、貫高制から石高制という収納される米の容量で土地の生産性を表示するようになるが、一般には一貫は二石換算とされている。例外としては、仙台藩領の一貫一〇石というものもある。後北条氏の所領内に課せられた、田一段につき五〇〇文という標準貫高は、穏当な賦課といえるだろう。
図2-3-1 永禄年中江戸絵図
西尾市岩瀬文庫所蔵