後北条氏の軍制

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 後北条氏は関東地方を広範囲に支配した戦国時代有数の大名であるが、その軍制もまた優れていた。家臣団の編成については、「小田原衆所領役帳」が完成した早雲の孫氏康の時代には北条一門の御家門方六家、譜代家臣の二八老将、国衆と呼ばれる外様の他国衆、直臣である四八番将以下に分けられていた。
 御家門衆筆頭は、早雲の嫡子北条氏綱の弟北条幻庵で、所領五四四二貫文で、後北条家中最大の所領を領有していた。幻庵は氏綱・氏康・氏政に仕え、自ら軍配者として後北条氏の軍勢の指揮を執ったことで知られている。三四三八貫一九二文の小机殿は、氏康の子で幻庵の養子三郎のことで、後に上杉謙信(一五三〇~一五七八)の養子となった景虎である。謙信の養子となった景虎は、御館(おたて)の乱と呼ばれる謙信死後の上杉景勝(一五五五~一六二三)との跡目争いに敗れて越後国鮫ヶ尾城で自刃した。さらに、六郷殿・伊勢備中守殿・伊勢兵庫頭(ひょうごのかみ)殿・大和兵部大輔(ひょうぶたいふ)殿の六家が御家門衆としていずれも殿をつけて呼ばれ、家臣団中の最高位の家格を誇った。
 次に、一門衆に次いで家臣団の上位に位置したのが、北条早雲の駿河入国以前からの家臣とされる多目・大道寺・荒木・荒川・山中・在武(ありたけ)・松田のご由緒家と呼ばれた「七手家老」である。大道寺氏が伊勢氏と同じ備中、松田氏が相模出身という以外その出自は定かではないが、備中、京都周辺などの出身ではないかと推定されている。
 北川殿が今川義忠に嫁いだ後、駿河国興国寺城主時代に、駿河衆四家と呼ばれる朝比奈・岩本・葛山(かずらやま)・九嶋家を家臣団に加えた。次いで、伊豆国興国寺城主として伊豆支配を行う過程で伊豆衆二一家を家臣団に加えていった。
 早雲が最後に拠点として選んだ小田原城主時代に、相模衆一四家を加え、四六家が初代早雲時代以来の譜代衆である。「小田原衆所領役帳」を調えた早雲の孫氏康は、この四六家から、三家老・五家老・二〇将の合計二八家を制定した。この二八家は後北条氏の軍事編成に対応している。後北条氏の家臣団の頂点に立つ三家老は、駿河国興国寺城代松田尾張守・上野国松井田城代大道寺駿河守・武蔵国江戸城代遠山丹波守である。それぞれ後北条氏にとって東西と北方の戦略的に大切な城であるが、北条領の東の備えとしての江戸城の意味がいかに重要であったかがよくわかる。次に位置するのが五家老で、武蔵国川越城代北条綱成・相模国甘縄城代北条綱高・武蔵国栗橋城代富永右衛門尉(えもんのじょう)・伊豆国下田城代笠原能登守・上野国平井城代多目周防守の五人。この五家老は、戦国大名後北条氏の軍制の中心となっており、北条綱成は黄備(そなえ)、同綱高は赤備、富永は青備、笠原が白備、多目が黒備とされ、後北条氏の軍勢の多くが五色の旗指物で五つの軍団に編成されていたのである。二〇将もまた、この五色の旗指物に分けられて当時備(そなえ)と呼ばれた部隊を編成して軍勢の最前面に配置されていた。また、最後方に布陣する大将の周囲を固める旗本衆は、「い・ろ・は・に・ほ・へ・と」「ち・り・ぬ・る・を・わ・か」「よ・た・れ・そ・つ・ね・な」「ら・む・う・ゐ・の・お・く」「や・ま・け・ふ・こ・え・て」「あ・さ・き・ゆ・め・京」「み・し・ゑ・ひ・も・せ・す」の四八組で七つの部隊に編成されていた。各々旗指物に、かな文字一字を記していたのである。旗本勢と五色の主力部隊の中間に配置されていたのが、三家老とその軍勢であった。他国衆や一門衆は、浮役寄合衆あるいは浮勢と呼ばれた予備軍で、合戦の状況次第で随時に持ち場を指定されて行動する軍勢である。それぞれの軍勢の集団を備(そなえ)と呼ぶが、最前列に鉄砲と弓を装備した徒歩兵が配置され、次段には鑓、その後方に騎兵が控えて備ごとの指揮官が存在した。当時の戦国大名は大体同じような兵種であったが、近年の研究では東国と西国の合戦には相違があったと指摘されている。「日本の武士は馬に乗って移動するが、合戦の場では馬から降りて戦うのが、西洋と異なる」というルイス・フロイスの記述から、一時は、「武田の騎馬隊などというものは存在しない」「戦国大名の軍勢というのは、在地小領主ごとの小部隊の寄せ集めであるから、兵種ごとの部隊編成だったはずがない」という主張が一般書で行われるに至った。
 これに対し戦国期の専門研究者から、兵種ごとの部隊編成が実施されていた史料を示して、武田だけでなく東国の大名は西国の大名に比較すると、より多くの騎兵が動員されており、「馬入れ」という騎兵の集団突撃が戦法として行われていたことも明らかにされた。北条氏康も、従来の家臣団編成を、五つの主力部隊を五色の旗指物で識別し、旗本の旗指物を文字指物とすることによって全軍を指揮統率しやすい編成に改革したのであろう。東国では、永禄年間に多くの大名で軍制改革が行われたことも明らかになってきており、後北条氏でも大きな軍制改革が行われ、氏綱の時代までの家臣団編成を氏康がより戦時の軍事編成に即した体制として再編成したものと思われる。織田信長(一五三四~一五八二)や豊臣秀吉、そして徳川家康(一五四二~一六一六)が活躍するようになる戦国時代末期の戦国大名たちは、「小田原衆所領役帳」にみられるように、程度や時期の差はあっても軍役の体系を整備して、平時の家臣団編成も戦うための組織として戦時の戦場における部隊編成を反映したものとしていったのである。
 後北条氏の関東支配は、早雲時代から氏綱、氏康と代を重ねるにしたがって勢力は広がっていったが、必ずしも安定したものではなかった。常陸の佐竹氏、下野の小山氏などの平安・鎌倉以来の伝統的豪族層や、関東管領家の被官出身の有力国人領主層など抵抗勢力は多く、関東管領職を上杉憲政から継承した上杉謙信が連年のように関東に攻め込んでくると、多くの反北条氏勢力が呼応するという構図は最後まで継続した。上杉謙信の関東管領職就任の儀式は、小田原城が謙信に呼応した関東諸豪族も含めた大軍に攻囲される中、鶴岡八幡宮で挙行されたくらいである。その上杉氏も謙信の死後、跡目争いによって後継者となった景勝がいち早く秀吉との誼(よしみ)を深めて豊臣政権の大名となっていったが、後北条氏は徳川家康との縁戚関係を過信して、秀吉の実力を見誤って滅亡した。後北条氏は河内狭山一万石の小大名として江戸時代に復権する。
 豊臣政権による後北条氏の平定によって、享徳の乱から始まった一世紀を越える戦国時代は、ここにようやく終焉を迎えた。戦国時代の開始と終焉は関東だったということができるだろう。後北条氏の跡の関東支配は、関東管領の由緒を持つ上杉景勝が望んだともいわれるが、徳川家康が東海地方から移されて新しい時代が始まったのである。