大身の旗本のなかには、居屋敷に加えて下屋敷を所持する者もあった。その機能は大名家の下屋敷と同様で、居屋敷被災時の避難屋敷や野菜・竹木等の供給地や別荘として、江戸の郊外に設けられた。
また旗本が高家(こうけ)・側衆(そばしゅう)・大番頭(おおばんがしら)・留守居(るすい)などの役職に就くと、幕府に下屋敷の下賜を願い出ることが許され、このため就任者はたいがい出願して獲得した(小川 二〇〇三)。それらの役職に就くと居屋敷が職務を執り行う役宅(やくたく)を兼ねることになり、その罹災等の事態に備えて、控えの屋敷として下屋敷が与えられたものとみられる。このように役職の就任に伴って下賜された屋敷ではあったが、退役したのちも召し上げられることはなく、以降代々にわたって所持することができた。
例えば愛宕下(現在の新橋四丁目のうち)に居屋敷があった旗本(交代寄合)本堂家は、七代当主親房(ちかふさ)が明和二年(一七六五)の大番頭就任後に下屋敷拝領を出願して認められ、翌三年(一七六六)に深川島田町(現在の東京都江東区木場のうち)の土地を与えられて初めて下屋敷を所持することになった。そして親房退任後も所持して、深川元加賀町(現在の江東区三好・平野周辺)、西久保(現在の麻布台一丁目のうち)、青山百人町(現在の北青山三丁目のうち)、深川大和町(現在の東京都江東区冬木のうち)と相対替により場所を替えながら幕末まで持ち続けた。また麻布六本木(現在の六本木四丁目のうち)に居屋敷があった旗本花房家の場合は、六代正域(まさくに)が天明五年(一七八五)に大番頭に就任し、翌六年(一七八六)に下屋敷が下賜されることになったが、その後適当な土地を見つけるのに苦労したもようで、寛政元年(一七八九)になってようやく上大崎村(現在の東京都品川区上大崎二丁目のうち)の土地を拝領して正域の退役後も所持し続け、小石川大塚(現在の東京都文京区大塚二丁目のうち)、下高輪(現在の高輪四丁目のうち)と相対替で場所を替えつつ幕末に至った(渋谷 二〇一一、二〇一五)。