こうした状況から、特に一八世紀半ば以降、相対替(あいたいがえ)という方法が盛んに採られるようになる。相対替とは、拝領屋敷を所持者同士が直接交渉して交換するというもので、大名・旗本・御家人、いずれ同士の間でも許されていた。相対替は二者がそれぞれの屋敷地を交換するのが基本だったが、しだいに三者以上が何筆もの屋敷地を交換しあう複雑なものも多くなっていった。また一筆の一部を交換用地に宛てる場合もあり、これを切坪(きりつぼ)といった。
相対替が盛んになった理由は、普請奉行役所による認可の規制がゆるい、屋敷地の実地検分がない、当事者による書面の届け出だけで済むなど、拝領を願うよりもはるかに容易に、条件に合った屋敷地を入手できる利点があったからだった。
そしてこうした状況から、幕府へは相対替として届け出ながら実際には金銀が授受される、つまり相対替を装った拝領屋敷地の売買も行われるようになる。これには交換用地は受け取らずに、自らの屋敷地を渡して代金のみを受け取る場合と、各交換用地の条件(坪数や立地など)が不均衡なとき、その差の埋め合せとして屋敷地とともに金銀が授受される場合があった。支払われる金銀はいずれの場合も「引料(ひきりょう)」、つまり引越料の名目であった(宮崎 一九九二)。