大谷木藤左衛門の相対替記録から

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 麻布狸穴(まみあな)(現在の麻布狸穴町周辺)に住んでいた旗本大谷木藤左衛門(おおやぎとうざえもん)(季維、家禄一〇〇俵)は、一一代将軍徳川家斉の娘で、水戸藩主徳川家に嫁いだ峯姫(みねひめ)(峯寿院)の用人を勤めていた。このため弘化二年(一八四五)、勤仕する小石川の水戸藩上屋敷(現在の東京都文京区後楽一丁目、春日一丁目のうち)近くに住まいを求めようと拝領屋敷の相対替を行い、その経過を「屋鋪五方相対替一件(やしきごほうあいたいがえいっけん)」(港区立郷土歴史館所蔵「大谷木家文書」のうち)として記録に残した。これに基づき、屋敷地の移動と引料をまとめたのが図2-2-3-2「屋敷五方相対替」である。大谷木と小納戸飯塚勘解由(かげゆ)(家禄二五〇俵)、大番太田才輔(同二五〇石)、小普請鈴木辰太郎(同一二〇石余)、西丸徒目付千種半右衛門(同五〇俵二人扶持)の計五名の幕臣による「五方相対替」で、うち千種の屋敷地が分割されて交換用地は計六筆となっている。幕府届け出には当然引料は記載されないが、大谷木の記録にはその額も記されている。以下、宮崎勝美による一件の解説に基づき顛末を紹介する(宮崎 二〇〇五)。

図2-2-3-2 屋敷五方相対替
「屋鋪五方相対替一件」をもとに作成


 この相対替では露骨な拝領屋敷地の売買は行われておらず、いずれも屋敷地を実際に授受した上で、それぞれの土地の条件に応じた引料が支払われたもようで、例えば大谷木から飯塚への引料金二〇〇両は、土地代金一〇〇両と家作・畳・建具・石料ほか計金一〇〇両という内訳であった。ただし千種については引料なしで太田・鈴木に屋敷地を譲渡し、千種・大谷木間の引料は訳があるのでその有無も記載しないと、大谷木が記している。実は相対替の進行中、大谷木の屋敷が類焼して当初の人と屋敷地の組み合せが実施困難となり、大谷木が親戚の千種を加えてようやく話がまとまったという背景があった。おそらく大谷木が千種に引料なしの屋敷地を提供させ、代りに自らの麻布狸穴屋敷を譲渡するとともに、何らかの損失補填を行ったのだろう。大谷木の孫である大谷木忠醇(ただあつ)(醇堂(じゅんどう))がその著述「醇堂漫録」に、この相対替は「千種氏の為に金を添て地を呈するの事件」だったと述べている。大谷木は望んだ小石川東富坂下(現在の東京都文京区本郷一丁目のうち)に住まいを得たが、それは高い買い物となってしまったようである。