図2-2-3-2 屋敷五方相対替
「屋鋪五方相対替一件」をもとに作成
この相対替では露骨な拝領屋敷地の売買は行われておらず、いずれも屋敷地を実際に授受した上で、それぞれの土地の条件に応じた引料が支払われたもようで、例えば大谷木から飯塚への引料金二〇〇両は、土地代金一〇〇両と家作・畳・建具・石料ほか計金一〇〇両という内訳であった。ただし千種については引料なしで太田・鈴木に屋敷地を譲渡し、千種・大谷木間の引料は訳があるのでその有無も記載しないと、大谷木が記している。実は相対替の進行中、大谷木の屋敷が類焼して当初の人と屋敷地の組み合せが実施困難となり、大谷木が親戚の千種を加えてようやく話がまとまったという背景があった。おそらく大谷木が千種に引料なしの屋敷地を提供させ、代りに自らの麻布狸穴屋敷を譲渡するとともに、何らかの損失補填を行ったのだろう。大谷木の孫である大谷木忠醇(ただあつ)(醇堂(じゅんどう))がその著述「醇堂漫録」に、この相対替は「千種氏の為に金を添て地を呈するの事件」だったと述べている。大谷木は望んだ小石川東富坂下(現在の東京都文京区本郷一丁目のうち)に住まいを得たが、それは高い買い物となってしまったようである。