相対替を装った明らかな拝領屋敷地売買の事例として、文政一三年(天保元・一八三〇)に行われた熊本藩細川家(高五四万石)の白金中屋敷(現在の高輪一丁目のうち)の一部、一二〇〇坪と、旗本桑山九兵衛(家禄二〇〇〇石)と桑山吉五郎(同不明)の西久保葺手(ふきで)町屋敷(現在の虎ノ門四丁目のうち)、計一六八七坪の相対替がある。このとき細川家から両桑山家へは合計金八五〇両が支払われ、一方両桑山家は細川家から屋敷地を受け取っておらず、したがって実質売却であった。細川家が両桑山家の拝領屋敷を買得したのは、小田原藩大久保家(高一一万三〇〇〇石)の木挽町拝領屋敷(現在の東京都中央区銀座四丁目のうち)との相対替の交換用地とするためであった(宮崎 一九九二)。
このように大名家のなかには、相対替=実質的な買得によって、自家の必要に応じて拝領屋敷地の獲得や拡張を大規模に行う者が少なからずあった。つまりこうした一方には、それに応じて拝領屋敷地を売却する幕臣らがいたのであり、禁止だったはずの拝領屋敷地の売買はなかば公然と行われていた。
拝領屋敷地一坪当たりの売買価格は、港区域では、愛宕下などは幕末には最低金一両ほどが相場で、郊外の麻布龍土の場合は文政六年(一八二三)は金〇・六両、幕末には金〇・二~〇・三両ほどであったといい(宮崎 一九九二)、前述の両桑山家の西久保葺手町は計算すると金〇・五両となっている。