図2-2-4-1 旗本三嶋家屋敷絵図
西脇康編著『旗本三嶋政養日記』(1987)、第6図「三嶋氏邸宅図(翻刻)」を転載
三嶋家は家禄一三〇〇石、この屋敷は五四〇坪である。一〇〇〇~一九〇〇石の高坪は七〇〇坪であり、規定より狭い。南・東・北側の隣家との境は塀か垣根で囲繞(いじょう)され、西側の道路沿いを表長屋とし、その北寄りに門を開く。門を入った正面に母屋の玄関式台があり、そこから奥(東)へと母屋が展開する。母屋南側には長屋が一棟、南東奥に庭園、鬼門(きもん)(鬼が出入りするという、不吉な方角)にあたる北東角には稲荷社がある。以上が建物配置の概要である。
母屋は、基本的に江戸時代の武家住宅は江戸城本丸御殿から大名屋敷・旗本屋敷まで共通の、接客・対面の空間である表(おもて)、主人の公務および日常生活の空間である中奥(なかおく)、夫人の生活空間である奥(おく)と、空間が分化された構造であり(本章一節一項「大名屋敷の空間構成」参照)、三嶋家の場合もそうした構造であった。ただし屋敷地が狭いためか、中奥が表に吸収されて、それと奥のあいだに「奥ト表ノ境界」として杉戸および錠口(じょうぐち)を設けている。表・中奥は玄関、使者ノ間、書院、表居間、対面所など、奥は奥客間、当主政明の書斎と夫人の居間、祖母の居間、政明父政養(まさきよ)の居間(夫人の部屋の二階)などからなる。また塀、木戸、垣を多用して各空間から他空間が見通せないよう仕切りが設けられており、これも屋敷地の狭隘(きょうあい)性のためとみられる。