居住者

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 再び三嶋家の屋敷絵図から、慶応三年(一八六七)時点、母屋には当主一家七名と女中ら九名、家来四名の計二〇名、表長屋には用人と儒者とその家族ら四名と門番・小者ら三名の計七名、中長屋には厄介(やっかい)、別当(馬の飼育・管理に当たる)とその家族ら計八名、総計三五名がこの屋敷に住んでいた(西脇 一九八七)。うち厄介二名は先代当主の従兄弟で、扶養家族としてこのように長屋に住まわせていた。
 こうした親族との同居は、災害等で住居を失ったときや経済上の行き詰まりほか、様々な理由で行われることが少なくなかった。一つ事例を挙げると、天保一二年(一八四一)、旗本花房家の麻布六本木の居屋敷へ一族の花房縫殿助(家禄六〇〇石)一家が同居のため引き移った(なお縫殿助はこの時点で、市谷元土取場〈現在の東京都新宿区市谷加賀町二丁目のうち〉三四二坪と巣鴨〈現在の東京都豊島区巣鴨周辺〉一〇〇坪の拝領屋敷を所持している)。理由は勝手向き不如意で、同居は同族の花房長右衛門と同勘右衛門からの再三の頼みを本家が容れてのことであった。それに際して本家花房家は、自らの家中と縫殿助の「規定」を取り決めている。縫殿助住居は家中長屋の一画に設けられたようで、家中へは縫殿助住居への役人・懸(かか)り以外の立ち入り禁止と行き会った際の礼儀について定め、一方縫殿助へは本家への公式訪問および挨拶、本家より縫殿助らへの挨拶、懸りの者の出仕、家中長屋への出入り禁止、門限以後の帰宅、精進日の鳴物停止(なりものちょうじ)、縫殿助住居への親類以外の出入り禁止、縫殿助より親類への使いなど、一三か条におよぶ「規定書」を渡している(岡山市教育委員会所蔵「花房家歴史資料」のうち「花房家規定」 *)。本家・分家の間柄であっても同居に際しては厳しく、こうした様々な取り決めが行われたのである。  (渋谷葉子)