芝区選出代議士横山勝太郎にみる地域社会と政治

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 こうした地域社会と政治の関わりを、芝区から選出された衆議院議員横山勝太郎に即してやや詳しくみてみよう。横山は、明治一〇年(一八七七)広島県に生まれ、上京後日本法律学校法律学科(現在の日本大学法学部)を卒業し検事を経て弁護士を開業した。大正三年(一九一四)の東京市会議員選挙で芝区から当選、次の大正七年の同選挙でも連続当選し、大正六年には衆議院議員総選挙にも出馬して大選挙区制下の東京一区において定員一一名中七位で当選を果たした(白面人 一九二五)。大正九年の総選挙における横山については、対立候補の政友会大塚栄一が鉄鋼組合総出の応援や在郷軍人有志会の支援を得ており、「旧選挙法に依る時は横山氏殆ど勝味無きものゝ如きも新有権者約四千票は俸給者約六分、商人約四分にて横山氏の方余程有利なるのみならず三級階級の同情も少なからざる情態なれば横山氏には開拓の余地意外に多く」あるとされ、「俸給者」すなわちサラリーマンや、「三級階級」すなわち制限選挙下で最も所得の低い層が新たに有権者となる選挙権の拡大が横山に有利に働くのではないかとの観測が示されていた(『東京朝日新聞』大正九年五月七日付)。結果は表3―2―2―1にみられるとおり、横山が倍近い得票により勝利した。
 この結果を受けた翌一〇年の芝区会議員選挙では、それまで「政友系の大塚栄吉氏の温交会は二十三名の議員を有し絶対多数であつたが」解体するに至り、「之に対して横山勝太郎若林成昭氏等の区政研究会(非政友)は今回の選挙で過半数を獲得せん事を期して定員四十名に対し三十三名の候補を立てた」と報じられていた(『東京朝日新聞』大正一〇年十一月二八日付)。この芝区会議員選挙では、区政研究会系が二二名、旧温交会系が七名、中立が六名、不明が五名当選しており、横山らの影響下にある非政友会系の勢力が区会の過半数確保に成功し優位に立ったことがわかる(『東京朝日新聞』大正一〇年十一月二九日、同三〇日付)。さらに翌一一年の東京市会議員選挙では、芝区は「曩に区議選挙に際して非政友派の大勝に帰し所謂横山若林一派の全盛時代となった観がある」とされ、定員三名となる一級では優位にある若林成昭に加えもう一名の当選を目指し、定員四名の二級では、四名の定員を憲政会公認とそれ以外を含めた「非政友会派」の候補者で占める計画があると報じられていた(『東京朝日新聞』大正一一年五月一二日付)。その後、この二級の選挙には定員四名に対し九名が立候補し、そのうち「非政友会派」の候補者が六名となる乱戦となったが、憲政会公認候補二名が「横山氏の応援強くヂリ押しに進んで来たかの感がある」と報じられた(『東京朝日新聞』大正一一年五月二七日、同六月四日付)。この選挙結果は、横山の支援を得た憲政会公認候補二名と非政友会系候補一名、政友会系候補一名が当選し、芝区の非政友会系勢力のなかで横山を頂点とする憲政会系の系列化が進行する様子が確認できる(『東京朝日新聞』大正一一年六月八日付)。
 こうしたなかで、大正一三年の総選挙に際しては、芝区は東京市内で本郷区、牛込区と並んで「無風状態」で「憲政会の候補者に対し矢面に立つ候補者がない」とされ、「横山勝太郎君の向ふを張つて出た同志会の平君など歯も立たない有様」と報じられるほど横山―憲政会の支持基盤が確立していた(『東京朝日新聞』大正一三年五月四日付)。この傾向は、表3―2―2―1にみられるように、最初の男子普通選挙制による昭和三年(一九二八)の総選挙でも、民政党横山の圧倒的な得票数で一位を持続した。
 しかし、この横山を頂点に系列化された憲政会―民政党系の勢力にもその後変化が生じる。この点については、櫻井良樹が新たに見出した『立憲民政党芝民政倶楽部書類ファイル』に基づいて詳しく解明している(櫻井 二〇〇三)。以下櫻井の研究と上記のファイルに収録された諸史料から変化をみていく。横山は、昭和三年の総選挙に続く昭和五年の総選挙に先立って、同年一月十九日芝公園明照会館で発会式を挙げ芝民政倶楽部を結成した。この芝民政倶楽部については、翌六年五月に横山が急逝した後、「芝民政倶楽部なるものは民政党の民政倶楽部でなくして横山氏の民政倶楽部(選挙母体)であつた」(『城南朝日新聞』昭和六年七月二〇日付)と報じられた。
 先に触れたように芝区に支持基盤を確立していた横山が改めて「選挙母体」とされる組織を作った理由について、櫻井は同じ民政党から芝区を地盤とする大神田軍治が立候補したこととの関係を指摘している。大神田は、先に触れた大正一一年(一九二二)の東京市会議員選挙の際にも、芝区において横山の応援を受けていない非政友派候補として名前がみられ(『東京朝日新聞』大正一一年六月四日付)、次の大正一五年の東京市会議員選挙の際も「区内では憲政系として孤立の立場にある大神田君」(『東京朝日新聞』大正一五年五月二二日付)と報じられるように横山の系列下に入らずに大正一五年の東京市会議員選挙で当選を果たし、昭和五年(一九三〇)の総選挙に立候補していた。以上の大神田の経歴に鑑(かんが)みると、「芝民政倶楽部」結成は、櫻井が指摘するとおり、芝区の民政党系勢力のなかのいわば非―横山系の台頭と関連すると考えられる。
 この点は、翌六年五月の横山急逝後にいっそう顕在化する。横山没後六〇日にあたる同年七月一二日は、「生前氏の選挙母体たりし芝民政倶楽部主催の追悼会を兼ね、同会総会、追悼演説会」が開催され、顧問の俵孫一前商工大臣により、高橋義次が後継の会長に、区議の笠原慶蔵、尾田源兵衛、鹽坂(かまさか)雄策が副会長に指名された(『東京ニュース』昭和六年七月一五日付)。しかしその後同年八月一日には、上記の芝民政倶楽部の役員人事により同倶楽部が「高橋義次後援会」化することに反対する区議九名が芝民政倶楽部と不可分の関係にあり、区会における会派であった更新倶楽部を脱会し、新たに公友会という会派を結成するという動きが生じた(『城南朝日新聞』号外昭和六年八月三日付)。この背景には、横山死後の芝民政倶楽部の方向性について、「一つは芝全体の民政党系人士を以て党本部との直接関係を持つ民政党芝支部と銘打つべき」組織とし「往年の横山氏後援会の変名たる如き高橋後援会の変名たる芝民政クラブに非ざる総務制度」を希望する者と、「一つは高橋氏を中心とする論者」で将来的に組織改編するにしても現段階では「結局高橋君の足元より好餌を奪取され」ることを危惧する者とで意見の相異があるとされた。結果、二二名からなった区会会派更新倶楽部のうち前者に賛同する九名が同倶楽部を脱会して公友会を結成し、後者に賛同する一三名が更新倶楽部に残ることとなった(『東京実業新聞』昭和六年八月八日付)。
 以上のように、芝区から選出された衆議院議員横山勝太郎に即してみると、大正九年(一九二〇)の小選挙区制・選挙権の拡大を契機とし非政友会系勢力が地域政治に進出し、市議や区議レベルを系列化しつつ政党勢力(横山の場合、憲政会―民政党系)の支持基盤を形成していく過程や、その後男子普通選挙制と同時に実施された中選挙区制下での同一政党候補の競合がこの支持基盤にもたらす変化など、戦間期における地域社会と政治、とくに地域社会と政党の関係がよくうかがえるといえよう。