新史料からみる戦間期の町内会――三田松坂町会の事例

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 次に戦間期の港区域における町内会の姿を、今回の区史編さんのなかで新たに見出された三田松坂町会(現在の三田四~五丁目、高輪一丁目)の史料に即して具体的に検討しよう。
 三田松坂町会は、大正二年(一九一三)頃、石川力蔵を会長として発足した愛友会に端を発し、祭礼、兵士送迎、町内親睦などの事業を始め、大正一〇年に石川の尽力による組織改編により松坂町町会として創立されたという(篠田 一九三一)。設立時期については、大正八年の『芝松坂町愛友会会員名簿』にも「大正二年創立」との記述がみられ一致する。組織改編については、大正一三年の『芝松坂町愛友会規約』が残存し、そこに「大正拾参年松坂町会ト改称」との書き込みがみられ、また翌一四年の規約には「芝松坂町町会」と記されているため、関東大震災後の大正一三年に町会への改編がなされたと考えられる。
 その創設者である石川力蔵については大正一三年の会員名簿に「建具請負業」とあるほか詳細は不明であるが、昭和二年(一九二七)に町会長に選出され、以後昭和三年から一〇年まで三期にわたり会長を務めた石井倉吉については、詳細を知ることができる。石井は、明治一二年(一八七九)神奈川県三浦郡出身で、その後上京し明治法律学校に入学した。その後神田の麻問屋石井家の養子となり、日露戦争での応召を経て明治四二年には在郷軍人会芝区分会創設に尽力した。大正一二年(一九二三)には松坂町に洋品店を開業し、大正一四年に区会議員選挙に当選、一五年より町会副会長を務めていた(篠田 一九三一)。町内会に関する研究では、江戸時代には町を構成していなかった旧武家地等では、大正中期頃に東京流入者のなかから「成功した」比較的定住性の強い社会階層が生まれ、「町内有志団体」に結集し町内会の担い手となるとの指摘がある(田中 一九九〇)。石井は、上記の類型によく合致する町内会の担い手であるといえよう。
 続いて規約の変化に即して、この町内会の性格を検討しよう。まず現在確認できる規約のうち最も古い大正一三年の「芝松坂町愛友会規約」では、第一条で「本会ヲ芝三田松坂町愛友会ト称シ町内一般ノ居住者ヲ以テ組織ス」とした上で、第二条で「会員ハ信義ヲ重ンジ親睦ヲ厚ウシ一般ノ公私ノ事業ニ当ルヲ目的トス」として、親睦と公私の事業が会の目的であると規定していた。また第三条で入営出征時の餞別や送迎などの兵事事業や、第四条で冠婚葬祭時の対応など慶弔に関する事業を規定している点は、時代は下るものの先にみた昭和九年(一九三四)の町内会の事業の傾向と一致している。
 他方で第七条では町内の火の番について、第八条では地域の春日神社祭礼について規定される。ここでは火の番の経費は会費より支出するほか「会員外ノ居住者ヨリハ応分ノ割当ヲナシ徴集スル者トス」とされ、祭礼の費用は会には課さず「会員外ノ居住者ヨリハ応分ノ寄付ヲ募集スル者トス」との規定がみられ、火の番や祭礼は町会のみの事業ではないこと、町内には「会員外ノ居住者」も存在すること、すなわちこの町会は全戸加入組織ではないことがうかがえる。また第一一条では、毎月一口金二〇銭を負担する普通会員、五〇銭を負担する正会員、一円を負担する特別会員、さらに特別会員のうち数口を負担する名誉会員の区分が規定されていたが、会員資格には差異はないとされていた。
 なお翌一四年には、前年のうちに松坂町愛友会が松坂町町会に改組されたことに伴い、第一条の会名が変更された。またこの変更に際して、夜警や火の番の経費、祭礼費用を町会が負担するかたちに規約が変更された。
 その後昭和二年(一九二七)に規約の大幅な変更が行われた。変更された「昭和弐年四月改正 芝三田松坂町会規約」ではまず第一条で「本会ヲ芝三田松坂町会ト称シ町内一般ノ居住者及当町内ニ土地又ハ家屋ヲ所有スル者ヲ以テ組織ス」と規定し、会員の要件が町内一般の居住者のみでなく町内の土地や家屋の所有者にも拡大された。第三条では「本会ハ自治ノ精神ヲ涵養シ町内ノ円満発展ヲ図リ延テ居住者一般的福利ヲ増進スルヲ以テ目的トス」と規定され、会の主目的として「自治ノ精神」を涵養することがうたわれた。また第五条では、会の事業として、「一、衛生ニ関スル事、二、夜警火番ニ関スル事、三、窮者救助ニ関スル事、四、祝祭典ニ関スル事、五、陸海軍入営入団者動員応召者ヲ送迎スル事、六、水火災祝儀不祝儀ニ関シ慰問スル事、七、善行者表彰ニ関スル事」とその他必要な事業として、町会の実施する事業が列挙された。第一五条では、「本町内居住者ニシテ会員タラザルモノニ対シテハ火番及衛生費トシテ一ヶ月金三十銭ヲ徴集((ママ))スルモノトス」として、町内居住の非会員からは火の番と衛生費として費用を徴収することが規定された。この昭和二年の規約は、その後昭和一二年まで大きな変更はなく継承された。
 なおこの間の会員数をまとめたものが表3―2―3―4である。確認できるうち最も古い大正八年(一九一九)の会員名簿では一八〇名であった会員数が、次に確認できる大正一三年の名簿では三三〇名と大幅に増加しているが、この間の事情は不明である。その後は増減を繰り返すが、一貫して三〇〇名以上を維持している点からは、先にみた表3―2―3―2に照らせば芝区のなかでも規模の大きな町内会であったことがわかる。また会員内の級別構成については、昭和二年(一九二七)の規約にある月の級別の会費徴収記録が書き込まれており、これを整理したのが表3―2―3―5である。ここでは、月に会費を五〇銭以上納める正会員以上が六割弱を占め、この町内会が比較的富裕な住民層を擁している点がうかがえる。
 続いて規約に掲載された各年度の事業報告から戦間期の町会の具体的な活動をみてみよう。表3―2―3―6は、昭和二年から一二年の事業報告をまとめたものである。先に昭和九年の東京市の調査に基づいて当該期の町内会が実施する事業をみたが、松坂町会に即した場合も、腸チフス予防注射や町内下水清掃・消毒薬散布、蠅取りデーなどの衛生事業のほか、祭礼、兵事、慶弔、夜警火の番など当時の町内会に共通する事業が実施されていることが確認できる。時間的な変化に着目すると、昭和三年に町会事務所が落成している点が目をひくほか、昭和七・九年以降警察署・消防署などへの寄付が実施されていることがわかる。
 さらにこの実施事業の比重について、規約に掲載された収支決算からみてみよう。昭和二年から一二年の収支決算をまとめた表3―2―3―7によると、収入は昭和三年に建築資金借入で一時大きく膨らむ。この点は、上記の事業報告にみられる町会事務所の建設によるものと考えられる。その後昭和五年以降収入は漸減していくが、その主な要因は会費収入の減少である。とくに昭和八年には減少幅がやや大きくなるが、先に表3―2―3―4でみたとおり会員数はそれほど減少しておらず、この会費収入減少の理由は明らかではない。
 以上のように、今回の区史編さんで新たに見出された三田松坂町会の史料からは、戦間期の町内会の構成や実施事業の内容およびその変化を克明にうかがうことができる。  (中村 元)
 

表3―2―3―4 三田松坂町会の会員数

『芝松坂町愛友会会員名簿』(1919)、『芝松坂町愛友会規約』(1924)、『芝松坂町町会規約』(1925)、『芝三田松坂町会規約』(1927~1937)をもとに作成

表3―2―3―5 昭和2年(1927)における三田松坂町会の会員級別構成
注)第四部の構成が不明のため、表3―2―3―4の会員数と数値が異なる。
『芝三田松坂町会規約』(1927)をもとに作成

表3―2―3―6 三田松坂町会の事業内容
『芝三田松坂町会規約』(1928~1938)の「事業報告」をもとに作成

表3―2―3―7 各年度収支決算からみる三田松坂町会の活動
『芝三田松坂町会規約』(1928~1938)の「事業報告」をもとに作成