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(四) 京都郡と仲津郡の郡衙

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 豊前国内では企救・田川・京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐の八郡が置かれた。前出のように郡の等級は里数によったが、これによると京都郡は下郡、仲津郡は中郡にあたる。『和名類聚抄』には豊前八郡内に四三郷名があげられているが、京都郡は四郷、仲津郡は八郷となっている(第7表)。
第7表 豊前国の郡と郷
郡名郷名現在の行政区
企救(きく)長野、蒲生北九州市小倉北区・南区・門司区
田河(たがわ)香春・雉怡・位登・城田田川郡・田川市
京都(みやこ)諫山・本山・刈田・高来
}京都郡・行橋市
仲津(なかつ)呰見・蒭見・城井・狭度・高屋・中臣・仲津・高家
築城(ついき)綾幡・桑田・樢木・大野
}築上郡・豊前市
上毛(こうげ)山田・炊江・多市・上身
下毛(しもげ)山国・大家・麻生・野仲・諫山・穴石・小楠下毛郡・中津市
宇佐(うさ)野麻・酒井・葛原・封戸・向野・広山・垣田・高家・深見・辛島宇佐郡・宇佐市

 ところで、旧豊前国内では現在までのところ上毛郡衙跡と下毛郡衙跡が発見され、調査が進められている。上毛郡衙跡は山国川左岸の築上郡新吉富町「大ノ瀬下大坪遺跡」で、八世紀を中心とする門跡・正殿跡・東脇殿跡・倉庫跡・柵列などが検出されている。また下毛郡衙跡は山国川右岸の中津市永添の「長者屋敷遺跡」で、九棟分にあたる倉庫群の柱穴などが検出されている。京都・仲津郡衙については、その所在地はまだ確認されてはいないが、歴史地理的な立場からの論考はなされている。中でも日野尚氏はそれぞれの郡衙について次のような説を出している。まず京都郡衙については苅田町岡崎地区の小字名に「上地正院」「下地正院」が小波瀬川右岸の低い台地上にあり、京都郡家に結び付く可能性が強いとされている。更にここが奈良時代に瀬戸内に面する重要港であった草野津にも近いことから有力視されるとも述べている。仲津郡衙については、条里の境界線に位置する豊日別(とよひわけ)神社(別名を草場神社、行橋市草場所在)に注目し、『太宰管内志』に「…仲津郡草場村、古は中臣村と云りし由、古き[村名帳]などに見えたりと云り」という内容から、かつてここが中臣郷域であった可能性が強いとして、豊日別神社は豊国直が祭祀した神社で豊国造の本貫地を示していると考えて、郡家をここに比定している。
 しかし、いまのところまだ岡崎地区からも草場地区からも郡衙に結び付くような遺構や遺物は出土していない。
 郡衙は郡司などにとって都合よい場所を選んで設置されたとされているし、郡司が国造を務めてきた譜第の有力豪族の中から任用されたとすれば、京都・仲津郡内で古墳時代終末期の大型古墳群や初期寺院の所在地とそこからあまり遠くない周辺の地が郡司の本貫の地として、また郡衙所在地の有力候補地として浮かび上がろう。
 京都郡では古墳時代後期から終末期にかけての大型前方後円墳・方墳や円墳の集中する勝山町上黒田地区に郡谷(ぐんや)の小字名がみられ、注目を引く。また、仲津郡では同時期の大型円墳や方墳が集中していたり、律令時代に国分寺や豊前国府の設置された錦原台地北部(現豊津町)とその周辺が注目される。