足利直冬が中国方面へ去って南朝方へ降り、その周旋によって、少弐頼尚が懐良親王方と合体すると、九州では南朝方が優勢となって、懐良親王の多年の苦労が報われることになった。
後醍醐天皇の第十六皇子とされる懐良親王は、建武三年(一三三六)、天皇が叡山へ難を避けていたとき、五条頼元ら一二人に守られて、紀州和歌山辺から船出し、九州へ向かった。このとき七歳であったという。
熊野水軍に送られて、伊予国忽那島(くつなじま)に着き、忽那義範に擁護されて三年を送り、更に瀬戸内海を西行すること三年、薩摩の山川港に入り、谷山城主谷山隆信に迎えられた。ここで六年を過ごし、肥後の菊池氏を頼って宇土に上陸して隈府(わいふ)に入った。正平三年(一三四八)のことで、親王は十九歳の青年になっていた。
観応の擾乱(観応元年=一三五〇―文和元年=一三五二)中、足利直義や尊氏が一時的とはいえ、南朝方と合体したことは、九州の南朝方をも勢いづかせ、肥後の菊池・阿蘇氏は肥後から筑後川南岸にまで支配地域を拡大していた。
一色直氏が直冬・頼尚勢を攻撃するため、南朝の軍事力を借りて、直冬を長門へ走らせることに成功したが、足利尊氏が吉野方と手切れすると、孤立していた少弐頼尚が南朝方へ接近してきた。