ビューア該当ページ

懐良親王の北九州制圧

643 ~ 644 / 1391ページ
少弐頼尚の軍勢を加えた懐良親王は、正平十年(一三五五)九月、肥前小城(おぎ)城の一色直氏を攻め、十月には豊後の日田・玖珠・由布・狭間・府内と軍を進め、大友氏泰を降し、大神・豊前宇佐・城井と進んで、豊前の守護であった宇都宮守綱を降し、筑前殖木(うえき)・博多と九州を半周する大遠征を行って、一色方の諸将を降し、宮方優位の地位を確立した。
 この遠征によって、一色直氏は長門へ走り、その父道猷は京都へ帰ってしまった。
 宇都宮守綱は、文和三年(一三五四)八月、弟公景以下、一族の者多くを討ち死にさせた功労として、豊前国延勝寺・今富庄・中元(がん)寺などを与えられ、同時に、豊前国守護職に補任されたらしい。
 宇都宮守綱が豊前国守護としての任務を示す唯一の史料が次の『大友家文書録』の将軍足利義詮御教書である。
  豊前蔵人三郎(田原直貞)入道正曇代重海申す豊前国苅田庄地頭職の訴状、これを遣す。氏家九郎・同子息掃部助・荒宇津大和孫太郎以下の輩、所務を濫妨すと云々、事実たらば、太(はなはだ)然るべからず、彼の輩を退け、下地を正曇に沙汰し付け、請文を執り進ずべきの状、件の如し
    文和三年十二月二十日
御判(足利義詮)     
         宇津宮常陸前司(守綱)殿
(原文は漢文)

 この意味は、少弐頼尚の肥後国守護代であった饗庭(あえば)弾正左衛門宣兼(のぶかね)が所持していた苅田庄地頭職を勲功の賞として田原正曇へ宛行(あてが)ったが、荒宇津大和孫太郎(宇都宮頼房の子孫カ)や氏家九郎父子らが、田原氏の命令に従わないと訴えるので、宇都宮守綱をして、下地を田原氏へ打ち渡すよう命じるというものである。
 宇都宮守綱は、多年筑後国の守護職を務めてきたが、少弐頼尚を味方に加えた宮方が強勢となって、筑後国はほぼ宮方の支配下に入ったために、豊前国へ配置替えされたと考えることができる。