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頼尚北朝方へ

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少弐頼尚の豊前守護職は、懐良親王によって安堵された。しかし、少弐頼尚は貞和年中(一三四五―五〇)から大野井庄を押領していると弥勒寺から訴えられて、正平十一年(一三五六)これを寺家へ返却させられたらしく、守護代西郷兵庫允顕景が安東孫次郎入道助阿・舎弟三郎次郎入道生阿らと組んで、この庄を違乱し、やがて、神官・社僧を殺害するに及んだため、宇佐宮が神輿を動座して訴えたので、懐良親王は頼尚の守護職をやめ、国司五条左馬権頭良遠を下向させて、国務を執行させ、守護には、頼尚の長子で前々から南朝方として行動してきた頼澄を任命し、守護代として菊池武光の弟武尚を派遣した。
 少弐頼尚は、これを不満としてか、あるいは、鎮西管領を駆逐して、九州北部の支配権を承認するという足利義詮の工作に応じてか、北朝方へ寝返る。直冬のこと以来、険悪な関係にあった足利尊氏の死も頼尚を幕府方へ復帰させる契機となったであろう。
 正平十四年(一三五九)三月、菊池武光が大友氏時の籠城する高崎山を包囲している留守を衝いて、少弐頼尚は、懐良親王軍を襲い、これを高良山へ撤退させた。