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大保原の戦いと頼尚の凋落(ちょうらく)

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正平十四年(一三五九)八月懐良親王は、太宰府の少弐頼尚を攻撃するために、八〇〇〇余の兵を率いて、筑後川を渡ろうとした。少弐頼尚はこれに対処するために六万余の兵をもって味(鰺)坂庄(小郡市)に陣を取り、大保原(小郡市)に陣替えした。八月十六(六日カ)日の夜、菊池肥後守武光の夜襲から、激戦が始まった(『太平記』)。この戦いで、少弐頼尚は、嫡子忠(直)資をはじめ一族二三人、郎従四〇〇人など三〇〇〇余を戦死させ、太宰府へ退いた。戦死した郎党の中に、西郷兵庫允顕景や饗庭右衛門蔵人宣尚ら、守護代クラスの武将が多数いた。宇都宮守綱も頼尚側に加わって奮戦し、懐良親王も三か所の深手を負って危地に陥ったという(天本孝志『九州南北朝戦乱』)。
 懐良親王落馬の危地を救おうとして、宇都宮三河守隆房が戦死した。隆房は大和太郎左衛門と称した人物と考えられている。懐良親王は彼の忠節を賞して、後に「宇都宮大明神」として、肥後国木葉村に祭ったという。この戦いで、宮方も戦死者一八〇〇余を数えたといわれる。
 大保原の合戦で、一族と郎党の多くを失った頼尚は、太宰府有智山城にこもることが多く、目に見えて凋落(ちょうらく)した。
 正平十六年(一三六一)八月、懐良親王と菊池武光は太宰府安楽寺へ陣を進め、有智山城を攻撃して、頼尚を背後の宝満山へ追い上げ、やがて、太宰府を落ちて京都へ上り、隠遁(いんとん)生活に入らしめた。
 ここに、懐良親王は大宰府を收めて、名実ともに九州の支配者となり、応安五年(一三七二)八月、今川了俊に敗北するまで、一二年間、九州に君臨した。
 正平十六年十月、新鎮西管領として、斯波氏経が豊後高崎山に立てこもる大友氏時を頼って渡海してきた。斯波氏経が在任した二年間は懐良親王方の勢威が最も強かった時期であったから、豊後から豊前・筑前への進出をねらって、種々画策したが成功しなかった。