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馬ケ岳の戦い

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このころ、馬ケ岳の戦いが諸書にみえる。康安二年(一三六二)八月以前、豊前国に攻め入った斯波氏経と大友氏時軍は、三か度の合戦に打ち勝ち、八月七日の合戦では、南朝方の守護代(菊池武尚)以下、しかるべき仁五〇余人を討ち取り、敵はことごとく降参し、一国の大略が味方になったと、阿蘇大宮司へ報じている。
 大友氏時も、中豊前の戦いで、守護(少弐頼澄)の又代官以下、むねとの者三〇余人、合わせて七〇余人を討ち取ったと述べている。中豊前とは城井か馬ケ岳辺を指すと思われる。
 しかし、菊池武光軍が到着して、間もなく奪回されたらしく、貞治二年(一三六三)五月の『山田聖栄自記』に、周防の大内介弘世が渡海して、氏経を支援したため、菊池武光は退散した。大内弘世が帰国するとまた南朝方の支配に戻ってしまったとある。
 『太平記』では、大内弘世が三〇〇〇余騎を率いて豊後国に押し寄せ、菊池武光と戦い、二度目の戦いに負けて降を請い、命を助けられて帰国し、幕府方となってから初めて京都へ上った。このとき、弘世は数万貫の銭貨、新渡の唐物などを奉行・頭人・評定衆・傾城(けいせい)・田楽・猿楽・遁世者に至るまで与えたので、褒めぬ人はいなかったと記している。
 『歴代鎮西志』や『続本朝通鑑』(『大内氏実録』)は、このことについて、誤りも指摘できるが、次のように記している。
  正平十九年(一三六四)、管領細川頼之(よりゆき)の誘いで、幕府方へ降った周防の大内弘世(義弘とある)は、長門・周防・豊前の守護職を得て、長門国の前守護厚東(こうとう)氏を九州へ奔らせ、門司城に拠らしめた。大内弘世は厚東氏を追って豊前へ渡り、門司城を攻めたので、懐良親王は名和・宇都宮・堤・岩松氏ら三〇〇〇余を門司城へ送り、菊池武勝は兵二〇〇〇をもって門司城を支援し、原田・秋月・山鹿・麻生・宗像等五〇〇〇人ばかりも厚東氏を応援した。ところが、紀井出羽守(房綱カ)は宮方に従わず、芦屋にいた大内弘世を招いて馬ケ岳城に入り、宮方と対陣した。二月十三日、名和伯耆守長生は兵三〇〇〇をもって馬ケ岳を攻め、菊池武勝・厚東駿河守の来援もあって、大内弘世は敗走して、わずか五〇余騎で香春岳に逃げこもった。しかし、大軍に包囲されて、救援なく、大内弘世は名和長生の旧好を頼んで降参した。この時、長門国を厚東氏へ返還することになったが、弘世はこれを実行しなかったので、豊前守護菊池武勝を長門へ派遣してこれを制圧した。それより以前、菊池武勝は紀井出羽守の拠る岩錯(石)城を攻めて降し、出羽守を誅し、宇都宮壱岐太郎貞房を紀井家の家督として、紀井城に居らしめた。
 『八幡善法寺文書』などによると、このころの豊前守護は少弐頼尚の子息の頼澄、守護代は菊池武光の弟武尚、国司は五条頼元の子左馬権頭良遠であり、幕府方の守護は少弐頼尚の子冬資であることが明らかである。したがって『歴代鎮西志』の記述をそのまま信じることはできない。

国司五条良遠の花押