ビューア該当ページ

虫送り

963 ~ 967 / 1391ページ
享保十七年(一七三二)六月中旬から発生し始めた蝗の大群は、七月下旬に至って史上空前とも言える被害を西日本の各地にもたらした。小倉藩に限ってみても、翌十八年春までの餓死者は城下町で二五〇〇人余、企救郡七六〇〇人余、京都郡六〇〇〇人余、田川郡六七〇〇人余、仲津郡七七〇〇人余、築城郡六〇〇〇人余、上毛郡六一〇〇人余と、合わせて四万人にものぼる死者を出すに至った。現在は農薬をはじめとする除虫技術が発達しているが、近代的な農業技術が導入される以前の社会では、稲の病虫害は、農民が恐れた天災地変の代表的なものの一つであった。かといって、農民たちがそれに対して講じることの出来ることと言えば、神仏に祈ることか、田に鯨油を流して害虫を叩(たた)き落とすか、あるいは「虫送り」を行うことくらいであった(第25・26・27図参照)。
 

第25図 虫追いの図(『除蝗録』「日本農書全集」15巻)


第26図 虫の駆除
竹筒の底に小さな穴をあけ、持ち歩いて水につけながら、田に油を流す。
図では、その後から藁箒で虫を叩き落としている。
(『除蝗録』「日本農書全集15巻」)


第27図 火をたいて虫をとる
(『除蝗録』「日本農書全集15巻」)

 虫送りは、日が暮れるとともに藁などに火を付けウンカを誘い出し、松明(たいまつ)をともして、鉦(かね)・太鼓ではやしながら、村の外へ虫を追い払う。虫追いの際、百姓たちは独特の唱え言葉を口にした。
 
  実盛(さねもり)さんは ごー死んだ
  その虫は御供で
  アトツケ マンヅケ エイホイ ワーイ
                              (築上郡文化財協議会「ふるさとのうた」)
 
 平家の家臣であった斎藤別当実盛が、源氏の手塚太郎光盛と戦った際、稲の切り株に足をとられた隙(すき)に討たれ、その恨みで稲の害虫となった、という故事にちなんだものである。同様な唱え言葉は豊前地方一円に広がるものである。
 
  実盛さんは 加賀の国の篠原で
  ごりょんしょを構えて
  根虫 葉虫 こんか虫
  よろずの虫の御供で エーイ エーイ ワー
                                            (同前史料)
 
  さねもり虫はごじんざ
  こぬか虫は御伴せ
  あとふき栄えた
                                       (『田川市史』民俗篇)
 
 こういった唱え言葉を口にしながらの虫追いは、築上郡域では大正七、八年ごろまで行われていたと言い、ごく最近まで続いていた農耕習俗であった。
 天保元年(一八三〇)七月二十二日から二十四日にかけて、国作手永で虫追いが行われた。ただし、この時は御三卿・一橋家の第四代当主・一橋斉礼が、同年の六月十九日に死去したことに伴う喪のため、鳴り物を用いることは許されなかった(国作手永大庄屋文書天保元年「寅日記」七月二十二日の条)。しかし、二十二日から二十四日にかけての虫追いでは十分な効果が得られなかったようで、仲津郡大庄屋中より再び六日間の虫追いを、夜中に鉦・太鼓を用いて行うことを願い出ている(同前七月二十二日条)。このことについて、仲津郡奉行は家老に問い合わせたようであるが、結局鉦・太鼓を用いたら、京都郡がそれを手本にして虫追いを行うので、板の類(たぐ)いを叩いても同じ効果が得られるだろうから、そのように取り計らうこと、と指示している。また田川郡は内々に鉦・太鼓を用いて虫追いをしたらしいが、田川郡は他の郡から離れているから見られることはないが、仲津郡は「東郡中央之郡」であるから、他郡に見られるので良くないとしている。大切な農耕行事である虫追いも、鉦・太鼓を打ち鳴らし、唱え言葉を大声で叫ぶそのスタイルのため、事情によってはその内容に制限が加えられた良い例である。ただ、虫追い行事の騒々しさは、そのスタイルのせいだけではなく、騒々しさに乗じて遊戯化したものも実際に多かった。天保十二年(一八四一)の幕府からの触れには「村々において神事・祭礼・虫送り・風祭などと名付けて芝居や見世物を催し、衣装や道具を作って見物人を集めて金銭を費やしている者がいる。以後、こういった者を村へ立ち入らせるな」(国作手永大庄屋文書天保十二年「日記」十二月十六日の条)とあり、虫送りが遊戯的なものに利用されることもあった。