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高札

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高札は制札とも言い、法令・禁令などを板札に墨書し、町や村の辻や橋詰などの人目につきやすい場所に掲示したものである。法令や禁令などを掲示することは、古く奈良時代末から見られることであるが、江戸時代の高札につながるものは、室町時代の徳政や撰銭などの高札に、その系譜を求めることが出来る。江戸時代の法令・禁令は、幕府法(公儀御法度)と藩法(自分法度)に大別されるが、高札も公儀御高札と自分高札の区別があった。重要視されたのは公儀御高札つまり幕府の発した法令・禁令の記された高札である。このことは幕府領に限らず大名領などの高札場でも同様であり、「大高札」と呼ばれる五枚の公儀御高札(親子札、毒薬札、駄賃人足札、切支丹札、火付札の五枚)などが、高札場において主流の位置を占めた。大高札と呼ばれた五枚の高札などは、江戸時代の初期には、法令の改正や改元、幕府老中の交替の際に書き換えが行われたが、四代将軍家綱のころからは、改元の際だけ行われるようになった。また五代将軍綱吉のころには、将軍の代替わりの後の最初の改元の際だけに高札の書き換えを行うようになったが、この慣行も七代将軍家継の時に崩れた。そのため幕末に至るまで、六代将軍家宣が将軍となって最初の改元の時に書き換えた、正徳元年(一七一一)五月付の高札が維持された。
 小倉小笠原藩の高札場建物は、宿駅の場合、本宿・半宿の区別なく、幅二間・奥行き一間の瓦葺きで、壁は漆喰(しっくい)の白壁であり、前面には腰格子が附けられていていた。宿駅以外の町や村の高札場建物は、構造に違いはないが、大きさが異なり、幅一間・奥行き三尺であった。高札の枚数も宿駅とそれ以外の町・村では異なり、宿駅が幕府の高札九枚・藩の高札三枚の合計一二枚であったのに対し、それ以外の町・村の場合は、幕府と藩それぞれのものが一枚ずつであった。
 江戸時代の高札は、「法令・禁令などを板札に墨書し、掲示したもの」としてだけの意味を持つものではなかった。高札に書かれた法令・禁令の文章は簡潔で、また書かれた文字も、文字どおり「お手本」であったから、寺子屋などにおいて教科書的に使用された。嘉永七年(一八五四)七月、仲津郡奉行より長井手永大庄屋に対して行われた、口達による指示によれば、「高札場に掛けている法令・禁令を百姓の子供たちが文字の練習をする手本として書き写させれば、自然と法令を覚え込むであろうから、村々の手習いの師匠たちへ申し聞かせること」(国作手永大庄屋文書嘉永七年「御用日記」七月二十二日条)とある。また、同様なことについて、高札や触れを「往来庭訓・古状揃」などと同様に読本とすること、と指示している(同前八月二十九日の条)。
 また、高札および高札場には、幕府を頂点とする国家権威を誇示するものとしての役割があった。高札場の周囲には矢来などで囲いを巡らし、石垣または土盛りで一段高くし、管理には町・村の役人があたった。さらに、高札場の前を通行する際には敬礼することを要求したことからも、単なる法令の掲示板ではなかったことが分かる(第28・29図参照)。
 

第28図 仲津郡大橋村の高札場
(小笠原文庫1078)


第29図 築城郡赤幡村の高札場
(赤幡村庄屋文書)


第30図 明治4年12月小倉県参事名の高札
(築城町天徳寺所蔵)

 天保十五年(一八四四)、彦徳村において高札が紛失する事件があった。三月一日に仲津郡の大庄屋らによる下調べが行われた後、同十三日に本格的な取り調べが実施された。この時の取り調べは、長井手永大村(現在の犀川町大字大村)にある長井手永大庄屋の役宅において実施された。彦徳村からは、庄屋・方頭らが出頭したものと思われるが、取り調べを行う藩方の役人として、郡奉行と代官それに郡目付が、また仲津郡の五手永すべてから大庄屋・子供役・手代が出向き、総勢で二〇人近くにのぼる取り調べとなった(長井手永大庄屋文書天保十五年「辰御用日記」三月一日、三月十三日の条)。幕府を頂点とする国家権威を誇示・象徴するものとしての高札を、当事者たちにその意図が無かったとしても、「神聖」なものを冒した管理責任の追及は厳しかった。
 六代将軍家宣が将軍となって最初の改元の時に書き換えた、正徳元年五月付の高札(大高札)は、幕末まで維持されたが、どれほど大切に扱われても長い年月を経れば、所詮(しょせん)墨書しただけの板切れであり、風化・劣化するのは当然である。特に、墨が薄くなり文字の判読が困難になるには、さほど長い年月は要しなかったであろう。「さわらぬ神にタタリなし」的に、見て見ぬふりをする場合も多かったと考えられるが、当然書き換えを行うこともあった。ただし、この場合も町や村で勝手に書き換えることなどは許されなかった。
 天保五年(一八三四)二月一日、長井手永大庄屋は、管内の庄屋を役宅に集め、高札の文字が薄くなり、正しく読めなくなった分については書き換えを願い出ることを口達している(長井手永大庄屋文書天保五年「午日記」二月一日の条)。この指示に従って、崎山・古川・久冨・大村・喜多良・山鹿の各村は、幕府の駄賃人足札・切支丹札など合計一四枚の高札の書き換えを願い出ている(同前二月二十一日)。小倉藩では実際に農村の高札書き換えを担当するのは、郡方作事役であったようである。この時の書き換えは仲津郡全体(藩全体で行われたのかもしれない)で同時に、小倉において行われたようであるが、同年五月初旬には完了している(同前五月九日)。
 天保十五年(一八四四)の高札の書き換えの際は、小倉においてではなく、二人の書役が領内を廻郡する形で行われた。四月七日から始まった書き換えは、呼野・香春・添田・大村(仲津郡)・椎田・八屋・大橋・行事・苅田の各所で休泊しながら、四月十六日に完了している(長井手永大庄屋天保十五年「辰御用日記」四月八日の条)。
 明治新政府は、慶応四年(一八六八、九月八日明治に改元)三月に、諸国の高札について「是迄之分一切取除ケ」(『中原嘉左右日記』第一巻)た上で、太政官名による五枚の高札を新たに立てることを指示した。この時に、それまで掲示されていた高札が廃棄され、当地域に慶応四年以前の高札はほとんど残っていない。
 慶応二年(一八六六)八月一日、長州との戦いにより小倉城を自焼した小倉藩は、田川郡香春に仮の藩庁を開き、慶応三年(一八六七)一月、藩名を「香春藩」と改めたが、その香春藩時代に村々の高札場に掲示された高札に、次のようなものがある(第31図参照)。
 

第31図 明治2年香春藩の高札(築城町個人蔵)
公布された時は、「郡政局」名であったが、明治2年10月1日に、
郡政局が「民政局」と改名したのを受けて書き換えている。

 
       諭文
  一天道をおそれ神仏を信心せよ
  一天朝の御法度をかたく守れ
  一御国の掟・条目をそむくましきぞ
  一親は又なき物なれば孝行をつくせ
  一主を大切にし、ほうはいの中能せよ
  一夫婦兄弟むつまじく、一家親類したしくせよ
  一年寄をうやまひ、子供をあなどるな
  一朝寝せず夜なべすべし
  一旅人に不法すな、往来状もたぬ者は堅入るゝな
  一何事も短気にせず堪忍せよ、堪忍は福の本、短気は禍の根と知るべし
  一大酒のまず、うそいふな
  一工事(くじ)たくむな
  右の条々を平生よくよく慎み、一和したらば時々は又楽しむべし、人たのしまざれば、やまひを生ず、病
  生じては働の障となり、たのしみ過ぎれば放蕩の基となる、能々心を用ゆべし
   明治二年己巳七月旦     郡政局
                      (長井手永大庄屋文書明治二年「巳御用日記」七月五日の条)
 
 この高札の掲示は「雛形の通村々にて相認め、高札場に来る十三日(明治二年七月十三日)迄、間違い無く掛方いたし候様」との指示があった。高札の書き換えすら村方の勝手には出来なかった時代を考えれば、「村々にて相認め」る高札が現れたことは、藩に高札を支給する余裕が無かったことが第一の原因であるにせよ、一つの時代が終わったことを、強く庶民たちに印象付けたであろう。
 結局、高札による法令の公布方式は、時代にそぐわないとの見地から、明治六年(一八七三)二月二十四日に廃止された。