農民が年貢を上納出来ず村を逃げ出すと、庄屋は大庄屋にその農民を村方から「帳外」つまり宗門人別帳から除外することを願い出る。宗門人別帳から除外するということは、現在で言えば、戸籍も住民票もなくなるようなことを意味している。そして、もし出奔した農民に年貢の不払いがあった場合、それを肩代わりするのは、出奔した農民が属していた五人組の者たちである。
五人組制度の前身は、慶長二年(一五九七)に豊臣秀吉が、武士の相互監視のために、五人組・十人組を組織させたのが始まりである。江戸幕府は慶長八年(一六〇三)に京都において、秀吉の制度を町人にまで及ばせた十人組を組織した。その後も幕領内での五人組制度は推進されたが、幕領・私領を問わず、全国的にこの制度が施行されるのは、寛永十年代(一六三三―四二)といわれている。
五人組が組織されたのには、兵農分離が進められていく中にあって、農村の治安を維持していくための相互監視組織として、また村請制を原則とする年貢制度の中にあって、年貢未進者の弁済を組内の者が行うなどといった、連帯責任の組織としての目的を持っている。そして結果としては、村落に閉じ込められ、土地に縛られた生活を営むことを、農民自身が相互に監視しあうことで実現してしまうのである。
五人組は、その名称のとおり、最寄りに住む五人前後で組織し、その中の一人を頭とした。五人組の中には、親類・縁者や仲のよい者同士を入れることは無かったと言われている。
五人組制度を施行した所では、村ごとに「五人組帳」が作成され、農民が守らなければならない事項を前書きし、守ることを誓約した農民が連名・連印した。そして五人組帳は、毎年領主に対して提出したのであるが、小倉藩では毎年五人組帳を提出するようなことは、少なくとも江戸時代後期には、行われていなかったようである。その代わりに子年と午年の全国一斉の人口調査の際などに、五人組の改めが行われることがあったようである。例えば、天保四年(一八三三)に、仲津郡奉行・代官から大庄屋・子供役に対して「来年(天保五年)は午年の人口調査があるので、その時一緒に五人組の改めを行い、一手永の帳面を作成して提出すること。また五人組の名前を書き記して、家々の門口へ張り出すこと」(国作手永大庄屋文書天保四年「巳日記」八月十日条)と指示されている。築城郡では天保七年(一八三六)に五人組の改めが行われたが、その際に藩側が作成した五人組の申し合わせ事項を、少し長くなるが紹介しよう。
五人組申し合わせの事
一前々より度々仰せ出だされ候掟筋、堅く相守り候申し合わせの事
一両親へ孝行・実儀を専らにいたし、家内・従類睦敷、農業出精いたし候申し合わせの事
一御年貢納方万事念を入れ、収納割り日延びに相成らざる様皆済致し候申し合わせの事
一吉凶に付、聊の費えこれ無き様、格別の祝儀に付き、寄り合いの節一汁一菜、肴二種・酒三献限り、過
酒に及ばざる様第一申し合わすべし、仏事の節一汁三菜・無酒の事、其の外神事・祭礼等の節、相互に
往来致す間敷申し合わせの事
但し吉凶に付き取り遣りの儀、右に准ずべき事
一牛馬取り扱い、喧嘩・口論致す間敷儀は勿論、万事に付き我欲の取り計らい致さず申し合わせの事
一組合内病気・差し合い等にて、作方根付け取り揚げの時節を失い候はば、組合より助け合い候申し合わ
せの事
一牛馬寄せ合い候ハゝ、成るたけ組合にて寄せ合い候様致すべき申し合わせの事
一市中は勿論、他郡へも奉公に罷り出でず候申し合わせの事
一市中へ罷り出で手寄りを頼み、色々の儀頼み込み候義、相成らず、申し出で度儀は筋をもって申し出で
候申し合わせの事
一他方へ罷り出で逗留致す間敷申し合わせの事
一御役人へ対し無礼致さず候申し合わせの事
一馬に乗らず申し合わせの事
一他国神社仏閣抜け参り相成らず申し合わせの事
一諸役目念を入れ相勤め候申し合わせの事
一銘々持場所道筋損所これ有り候ハゝ取り繕い、万物道筋へ持ち出し置くべからず、道筋へ添い候田畑持
ちのもの、道を削りせば、免ざる様申し合わせの事
(有門家文書二九三)
こういった申し合わせ事項は、五人組頭の家で開かれる寄り合いの際に、反復朗読され、周知徹底が図られたのではないかと思われる。
五人組の連帯責任制度は、密告を奨励する風潮を生み出し、卑屈な精神、新しい試みへの躊躇(ちゅうちょ)、権力への柔順といった、支配する側にとっては好都合の精神風土を庶民たちの中に育てていった。
昭和十年代に、国家総動員体制の最末端組織として、また相互監視組織として作られた「隣組」は、この江戸時代の五人組制度が原型である。