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検地について

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近世大名の農村支配は、徹底した土地の調査を行って、「石高制」という制度を確立した点で、それ以前の時代の農村支配とは異なる。石高制とは、すべての土地を、そこからどのくらいの量の米が取れるか、ということで評価して、年貢徴収の基本とした制度で、大名の領国の大きさや、藩士の身分も石高で表示され、その大小に応じて軍役や普請役が課せられた。もちろん、近世以前にも土地調査は行われた。古代律令制の時代には田籍・田図という土地台帳が作成されたし、鎌倉時代にも、一国内の国衙領、荘園別に田畑の面積や領有関係を記した大田文(おおたぶみ)という文書が作られた。また戦国時代にあっても、大名の領地ごとに、土地を貨幣で評価する検地などが行われた。しかし、全国的・統一的・徹底的という点において、ひとつの画期となったのは、いわゆる「太閤検地」である。当地方で太閤検地にあたるのは、黒田氏によって、天正十五年(一五八七)に実施された検地である。しかし、この時の黒田氏の検地は、検地役人が出向いて検地を実施する方法ではなく、「指出(さしだし)」といって、農民などが自ら土地の面積や収穫高などを記して上申する形のものであった。指出は一般に、太閤検地が進むにしたがって行われなくなるのだが、天正十五年の時点においてさえ指出しか行えなかったことは、黒田氏が豊前に入国した後、地元の武士団が反発して蜂起したことと関係するのかもしれない。
 当地方において、指出ではなく、検地役人が出向いて行う形の検地を最初に実施したのは、黒田氏の後を受けた細川氏である。細川氏は入国して間もない慶長六年(一六〇一)七月に検地条目(検地をする役人の心得)を発して検地にとりかかった。細川検地の概略は次のとおりである。
 
①開始時期……慶長六年七月より
②使用単位……町・反・畝・歩
       一反=三〇〇歩、一間=六尺五寸
③石盛……上々田一石六斗、上田一石五斗、中田一石三斗、下田一石一斗、下々田九斗、上々畠九斗、上畠八
     斗、中畠六斗、下畠四斗、下々畠三斗
④使用枡……小倉枡(縦横五寸、深さ二寸五分)
⑤その他……企救郡に限り、寛永三年(一六二六)に検地のやり直しが実施された。
 
 石盛とは、耕地の等級別反当り標準収穫量、つまり田畠をいくつかのランクに分け、それぞれのランクにおいて一反当り標準的にどのくらい米がとれるかを定めたものである(ここでいう米とは籾のままではなく、五合摺(ずり)に精米した米のこと)。これを、それぞれの反別(面積のこと)に乗じれば標準的な生産高が求められることになる。例えば、上々田五〇町、上々畠五〇町の村があったとすれば、(一・六石×五〇〇反)+(〇・九石×五〇〇反)で、全生産高(村高)は一二五〇石ということになる。
 検地の内容をまとめると、①検地は村を単位とする、②村内小字を確認し、一筆ごとに田畠・屋敷地を測量、その地積と生産高を確認する、③田畠・屋敷地の地主=名請人を確定する。④田畠の等級=品等と、田畠の等級別反当り生産高を確定する。以上①~④の集計した結果として⑤村の全面積の確定、⑥村の規模=村高を確定、⑦村の範域と同時に村境を確定する(神崎彰利『検地』)。
 なお、細川氏は太閤検地以来、全国的に広く使用された京枡を使用せず小倉枡を基準にして検地を行った。このことが、後に小笠原氏時代になってからの年貢の算出方法に影響を与えることとなる(第32図参照)。
 


第32図 検地の図(『徳川幕府県治要略』柏書房より)