ビューア該当ページ

小笠原氏の石高

978 ~ 982 / 1391ページ
寛永九年(一六三二)に細川氏に代わって小倉に入った小笠原忠政(後に忠真)は、改めて検地を行なわず、細川氏の作成した検地帳をそのまま引き継いだ。後に、「水帳改」(「水帳」とは水利の別によって田畠をまとめた帳面。田畠所在地の小字、田畠の等級、反別、耕作者名が記され、末尾に本高、引高などが記されている)という形で検地帳の調整は行ったものの、基本的に細川氏の検地の成果が幕末まで年貢賦課の基礎となった(第33図参照)。水帳改がどういった形で行われたのか、詳しい点は分からないが、「(水帳は)先帳の趣を以地押ありし迄にて、荒地・無土等の村弁も其儘にて、地盤検地帳の高畝不闕(欠けざる)よふに整しもの」という。企救・京都・仲津・築城・上毛の各郡については宝永三年(一七〇六)に、田川郡については寛保二年(一七四二)に実施された。これら、各村の水帳で計算された本田畠の生産高を、小倉小笠原藩では「本高」といった(第47~52表は水帳にみる各村の耕作者別土地保有状況)。

第33図 宝永三年本田畠水帳(行橋市教育委員会蔵)
左より綾野村、徳政村、国分村

第47表 吉岡村土地保有状況
宝永3年(1706)
持高人数
12石~13石1
11石~  1
10石~  0
 9石~  2
 8石~  0
 7石~  5
 6石~  6
 5石~  2
 4石~  2
 3石~  2
 2石~  4
 1石~  3
 1石未満 6
合計34
「宝永三年 仲津郡吉岡村本田畠御水帳」(勢島文書10)

第48表 綾野村土地保有状況
宝永3年(1706)
持高人数
80石~85石1
50石~55石1
45石~  1
40石~  0
35石~  0
30石~  1
25石~  1
20石~  4
15石~  5
10石~  4
 5石~  1
 1石~  5
 1石未満 8
合計32
「仲津郡綾野村本田畠御水帳」(行橋市教育委員会蔵)

第49表 徳政村土地保有状況
宝永3年(1706)
持高人数
50石~55石1
45石~  0
40石~  0
35石~  1
30石~  1
25石~  0
20石~  3
15石~  4
10石~  9
 5石~  3
 1石~  0
 1石未満 1
合計23
「仲津郡徳政村本田畠御水帳」(行橋市教育委員会蔵)

第50表 国分村土地保有状況
宝永3年(1706)
持高人数
30石~35石1
25石~  1
20石~  2
15石~  8
10石~  7
 5石~  9
 1石~  7
 1石未満 9
合計44
「仲津郡国分村本田畠御水帳」(行橋市教育委員会蔵)

第51表 光冨村土地保有状況
享保9年(1724)
持高人数
45石~50石1
40石~  
35石~  1
30石~  1
25石~  2
20石~  4
15石~  6
10石~  25
 5石~  11
 1石~  16
 1石未満 9
合計76
「仲津郡光冨村本田畠御水帳」(勢島文書14)
※「村分」1石2斗1升1合1勺は除いた

第52表 節丸村土地保有状況
正徳5年(1715)
持高人数
55石~60石1
50石~  0
45石~  1
40石~  0
35石~  1
30石~  1
25石~  2
20石~  4
15石~  9
10石~  21
 5石~  31
 1石~  12
 1石未満 13
合計96
「仲津郡節丸村本田畠御水帳」(勢島文書13)

 石高制は、明治六年(一八七三)に廃止されるまで存続する。仲津郡においては、基本的に宝永三年の水帳が明治初年に至るまで使われ続けるのであるが、宝永三年から一六〇年以上も経過すれば、耕作出来なくなった田畠や耕作主のいなくなった田畠が発生しても不思議ではない。この水帳の欠陥(本高が固定してしまっているので、村の実勢に対応できない)を補うために、一村限りで水帳の作り直しをすることもあったようである。例えば、節丸手永光冨村では、宝永三年の水帳改の際に作成した水帳が、村の実勢と合わなくなったため、享保九年(一七二四)にもう一度、光冨村だけの水帳改を行っている。その時に作成された水帳の奥書には「(前略)当村の儀、御田地甲乙御座候に付き、御願い申し上げ、御赦免蒙り地組仕り候て、この度坪々残らず念を入れ相改め(後略)」(「享保九年仲津郡光冨村本田畑御水帳」勢島文書一六)とある。「地組」とは、不公平をなくすため、農民間で田畑の交換などを行ったことを指しているものと思われる。また節丸村には正徳五年(一七一五)の水帳しか残っていないが、宝永三年に作成した水帳を、もう一度正徳五年に正しく作成し直して、宝永三年のものは破棄したものと思われる。