引高には大きく分けて、永引、当引、検見引があった。永引は文字どおり永久に耕作出来ないと見なされた田畠に対する引高である。当引は永引と異なり、後々耕作出来る可能性がある田畠といった趣旨の引高で、検見引は風水害などによって収穫が著しく少なかった場合、損害高を調査(検見)した上で、その年に限り年貢を軽減するものである。なお、天和・貞享年間(一六八一―八八)までは、永引、当引の区別がなく、永引も当引のように課税の対象に引き戻しになることがあったが、それ以降はそのようなことは無くなったという。
①川成引
洪水などによって田畠が冠水し、荒れ地となったときに設けられる引高で、永久に免税地とする永川成引と当分の間免税地とする当川成引がある。第57表にみる節丸手永の場合、本田畠の永川成引は横瀬村の七三石余を最高に、手永合計三二五石六斗四升六合七勺が設けられており、また新田畠の永川成引は一五石五合五勺である。また本田畠の当川成引は上高屋村の六四石余を最高に、手永合計一〇三石九斗一合六勺であり、新田畠の当川成引は、一三石三升三合四勺である。永川成引、当川成引ともに無いのは吉岡村のみである。
第57表 文久3年節丸手永引高 | (単位 石) |
村名 | 永川成引 | 当川成引 | 年々屋 敷成引 | 年々道 成引 | 年々溝 成引 | 年々土 手成引 | 年々池 成引 | 年々田 成引畠 減物成 引 | 年々池 成三ケ 一引 | 年々池成 三ケ二引 | 前々春 免引 | 当春 免引 | 惣庄屋 作方役 米引 | 村別合計 |
吉岡 | 0.2059 | 3.4192 | 0.2586 | 3.8837 | ||||||||||
上原 | 1.7736 | 0.5686 | 5.8323 | 8.1745 | ||||||||||
光冨 | 22.3709 | 3.1391 | 0.3702 | 0.4292 | 0.9305 | 11.9061 | 39.1460 | |||||||
節丸 | 53.5446 | 8.9142 | 1.5204 | 0.0610 | 0.9449 | 0.1877 | 1.0732 | 1.3149 | 10.6530 | 2.2589 | 80.4728 | |||
犬丸 | 32.2668 | 2.6406 | 2.4314 | 0.2371 | 1.1705 | 38.7464 | ||||||||
内垣 | 15.1307 | 1.3610 | 0.8551 | 0.5966 | 17.9734 | |||||||||
末江 | 1.7065 | 2.8071 | 0.6956 | 0.1534 | 2.2995 | 0.0129 | 15.8550 | 23.5300 | ||||||
下高屋 | 6.5314 | 4.0805 | 0.1796 | 0.3250 | 2.5585 | 13.6750 | ||||||||
上高屋 | 21.3178 | 64.6091 | 1.0847 | 0.4275 | 87.4391 | |||||||||
木井馬場 | 16.7001 | 4.7650 | 1.7420 | 0.5548 | 23.7619 | |||||||||
横瀬 | 73.2966 | 10.8552 | 1.3145 | 0.6968 | 1.4190 | 87.5821 | ||||||||
下伊良原 | 47.1111 | 0.5403 | 47.6514 | |||||||||||
上伊良原 | 24.0912 | 0.1543 | 1.3090 | 25.5545 | ||||||||||
扇谷 | 1.8306 | 1.8306 | ||||||||||||
帆柱 | 7.9748 | 0.0352 | 0.1065 | 8.1165 | ||||||||||
引高別合計 | 325.64671 | 103.9016 | 5.0176 | 1.6126 | 6.0909 | 1.6067 | 5.3425 | 6.7462 | 2.5093 | 22.5591 | 15.8550 | 8.3908 | 2.2589 | 507.5379 |
(史料) | 「文久三年 仲津郡本田新地諸引調子帳 節丸手永」(「勢島文書」92-3) |
(注) | 元禄13~16年の本田永川成は、「当川之内ニ入」と但書がなされているのでその通り「当川成」の中に含めた。 |
また、節丸手永の川成が設定された時期を見ると(第58表)、本田畠の永川成の場合、不明分を除いた全部が寛文年間(一六六一―七三)から貞享年間(一六六四―八八)の間に引高として設けられている。現在の豊前市域の村々では、ほとんど全部の永川成が、寛永年間(一六二四―四四)から寛文年間(一六六四―八八)、十七世紀の前半期から後半期に成立しているが(『豊前市史』)、節丸手永の場合も、十七世紀の後半期に集中して永川成が設けられている。川成が設定された年代が、ある一時期に集中していることは不自然であるが、大規模な河川工事が十七世紀を通じて小倉藩全体で行われ、それにともなって潰された田畠が永川成とされた、とも考えられる。また、もう一つ考えられるのは、小倉小笠原藩では、寛文年間に入るころから年貢徴収体系の整備が行われたのであるが、そのことと関連しているのかもしれない。
第58表 節丸手永の引高 |
本田畠分 | 永川成引 | 寛文7年(1667)まで | 8.2997石 |
寛文10年(1670) | 161.7910 | ||
延宝元年(1673) | 18.5348 | ||
延宝 3年(1675) | 48.3706 | ||
延宝 4年(1676) | 0.0424 | ||
延宝 7年(1679) | 2.9589 | ||
延宝 8年(1680) | 1.5215 | ||
天和 2年(1682) | 2.2270 | ||
貞享元年(1684) | 0.7066 | ||
貞享 2年(1685) | 0.1035 | ||
貞享 3年(1686) | 0.1443 | ||
不明 | 80.9464 | ||
惣庄屋作高役米引 | 不明 | 2.2589 | |
溝成引 | 寛文10年(1670) | 1.0364 | |
延宝元年(1673) | 0.4303 | ||
貞享 2年(1685) | 2.0562 | ||
元禄 2年(1689) | 0.1534 | ||
不明 | 3.2671 | ||
土手成引 | 宝暦 3年(1753) | 1.4190 | |
不明 | 0.1877 | ||
屋敷成引 | 寛文10年(1670) | 0.6956 | |
不明 | 4.3220 | ||
道成引 | 不明 | 1.6126 | |
池成引 | 貞享 2年(1685) | 2.1687 | |
不明 | 5.7405 | ||
池成三ケ一引 | 享保20年(1735) | 0.1836 | |
安永 2年(1773) | 0.0750 | ||
安永 7年(1778) | 0.0728 | ||
安永 8年(1779) | 0.0129 | ||
安永 9年(1780) | 0.2772 | ||
寛政 2年(1790) | 0.1254 | ||
文化 3年(1806) | 0.4275 | ||
文化12年(1815) | 0.7544 | ||
天保13年(1842) | 0.5805 | ||
池成三ケ二引 | 天呆 5年(1834) | 22.5591 | |
田成畠減物成永引 | 寛文10年(1670) | 2.0121 | |
当田成畠間物成引 | 不明 | 1.2493 | |
前々春免引 | 不明 | 15.8550 | |
当春免引 | 不明 | 8.3908 | |
当川成引 | 元禄13年(1700) | 0.7018 | |
元禄15年(1702) | 78.3293 | ||
宝永 4年(1707) | 7.4021 | ||
文化13年(1816) | 6.9355 | ||
文政11年(1828) | 1.0265 | ||
嘉永 3年(1850) | 7.5792 | ||
安政 2年(1855) | 0.0953 | ||
新地分 | 永川成引 | 寛文8年(1668)から 貞享4年(1687) | 14.3354 |
貞享元年(1684) | 0.1327 | ||
不明 | 0.5374 | ||
池成引 | 貞享 2年(1685) | 0.0465 | |
宝永 3年(1706) | 0.0281 | ||
池成三ケ一引 | 安永 9年(1780) | 0.0269 | |
寛政 2年(1790) | 0.0099 | ||
池成三ケ二引 | 天保 5年(1834) | 0.4313 | |
溝成引 | 貞享 2年(1685) | 0.0281 | |
畠成田不根付引 | 不明 | 4.9550 | |
土手成引 | 宝暦 3年(1753) | 0.8773 | |
当川成引 | 元禄15年(1702) | 0.1217 | |
元禄15年(1702)から 宝永元年(1704)まで | 6.8545 | ||
元禄16年(1703)から 宝永元年(1704)まで | 0.0045 | ||
享保 9年(1724) | 3.4906 | ||
文化13年(1816) | 1.2668 | ||
文政11年(1828) | 0.7315 | ||
嘉永 3年(1850) | 0.5136 |
「慶応二年仲津郡寅歳御免相引方明細帳」(勢島文書92―5、7) |
②屋敷成引
小笠原氏は検地を行わず、前領主・細川氏の検地の成果をそのまま引き継いだが、その細川検地の際に既に屋敷地として使用されていた土地は敷地全部が「高外無年貢」すなわち村高から外し、免税地であった。しかし、細川検地以後(恐らく小笠原入国以後)屋敷地として使用されるようになった土地は「屋敷成引」という形で課税対象から除かれた。ただし、この場合免税となるのは敷地全部ではなく、居家・牛馬屋・稲屋・籾干場のみで、敷地内で畠を営んでいる場合は一般の畠同様に課税された。屋敷成引は「各郡村ニ於テ稀ニ在ルモノ」(「豊前旧租要略」『福岡県史資料』第八輯)と言うように、引高全体から見れば小さいものである。これは明和・安永年間(一七六四―八一)以降、新開村を除いて、屋敷成引を新たに設けることは禁じられたことと関係するものと思われる。節丸手永の現豊津町域の村々では、本田畠において、光冨村に三斗七升二勺、節丸村に一石五斗二升四勺が設けられている。また、節丸手永の屋敷成引は、不明分を除いて、全部が寛文十年(一六七〇)から引高として設けられている。
③道成引・溝成引・土手成引
文字どおり、田畠として使用されていた土地が、それぞれ道・溝・土手として供用されるようになり、免税地となったものである。いずれも引高が小さいのは、屋敷成引と同様に、細川検地以後に普請されたもののみが引高として計上されているためであろう。また、溝成引についてはその多くが「村弁(むらわきまえ)」(年貢などが不足した場合に村全体で不足分の充当にあたること)にしたり、その土地の持主が溝成分の年貢を納め、溝成引として免税となることは少なかった。
ちなみに、節丸手永の内、現豊津町域の村々の溝成引は、吉岡村の頭無池の築造に関連して造られた溝(本田畑二斗五合九勺の溝成引)以外は、「末長溝」が造られたことにともなう溝成引である。末長溝は節丸村の上流から上原村へ至る用水路であり、現在でも、改修はなされているが使用されている(第34図参照)。貞享二年(一六八五)に節丸村の本田畠八斗五升二合五勺・新田畠一升五合四勺、光冨村の本田畠四斗二升九合二勺、上原村の本田畠五斗六升八合六勺に溝成引が設けられており、この年に末長溝が竣工したのであろう。末長溝を含め、節丸手永の溝成引は、不明分を除けば、全部十七世紀の後半期に設けられている。このことは、藩側の発意による用水路が、この時期に多く造られたことを示しているのかもしれない。
第34図 末長溝の水口(節丸区)
④池成引(池成三ケ一引・池成三ケ二引)
これも細川氏が支配していた時よりあるものはすべて高外無年貢であり、また小笠原氏入国以後に造られた池も当初はすべて引高として免税地となっていた。しかし、その後「官民の利益如何ヲ実地ニ視察」あって(「旧租要略」『縣資』第八輯)、池成三ケ一引、池成三ケ二引、池成半方引が設けられた。また寛政三年(一七九一)には、藩の指導によって造られた池は三ケ二引、村々からの願い立てによって造られた池は三ケ一と定められた。
節丸手永の場合、すべて免税となる「池成引」が設けられたのは、本田畠では不明分を除いて貞享二年(一六八五)、新田畠では貞享二年と宝永三年(一七〇六)である。また池成三ケ一引は、第58表で分かるように、本田畠、新田畠ともに十八世紀の後半期に集中する傾向がある。池成三ケ二引は天保五年(一八三四)のみである。
ちなみに、節丸手永の内、現豊津町域の吉岡村、光冨村、節丸村の池は、次のように築造・拡張されている。
吉岡村頭無池
貞享二年(一六八五)に本田畠一石六升二合九勺の耕地を池成引として設けていることから、この年に、新たに築造したか、あるいは元々あった溜池の拡張をしたものと思われる。その後、享保二十年(一七三五)と安永二年(一七七三)に村方からの願い出により、池の拡張を行っている(第35図参照)。
第35図 頭無池(吉岡区)
奥に見えるのが現在の頭無池。手前の「上池」が江戸時代からのものと思われる。
光冨村野入池
安永七年(一七七八)に本田畠七升二合八勺の池成三ケ一引が設けられていることから、この年に村方からの願い出により、新たに築造したか、あるいは元々あった溜池の拡張をしたものと思われる。
光冨村幸池
安永九年(一七八〇)に本田畠二斗七升七合二勺、新田畠二升六合九勺の池成三ケ一引が設けられていることから、この年に村方からの願い出により、新たに築造したか、あるいは元々あった溜池の拡張をしたものと思われる。
光冨村今積池
天保十三年(一八四二)に本田畠五斗八升五勺の池成三ケ一引が設けられているので、この年に新たに築造したか、あるいは元々あった溜池の拡張をしたものと思われる。この天保十三年の今積池築造(あるいは拡張)は、後に述べるナンギョウバル(現在の豊津台地のこと)の開発に関連したものである。ナンギョウバルの開発は天保十年(一八三九)から開始されるのであるが、今積池築造の目的は、そのナンギョウバルへ農業用水を送ることにあった。しかし、池築造の願書には、里三手永(平嶋・国作・元永)へ用水を供給することのみを目的にあげており、なぜこのような目的の、すり替えを行わなければならなかったのか、問題の残るところである(第6編第3章第1節参照)。
光冨村大谷池
大谷池は天保五年(一八三四)に、節丸村の椎木池とともに、郡普請として築造されたものである。普請は国作・長井・平嶋の三手永が担当することとなり、天保五年四月七日に着手することが命じられたが、雨天のために翌々日に順延となっている。この池の着工は四月九日からであったが「大造に付き、中々相片付き候儀にてはこれ無く」、特に長井手永の丁場は進み具合が悪く、国作・平嶋手永の丁場が片付いたあとで再び出夫することとなり、四月十二日に「大谷池へ今日村々人別出夫、正明六ツ時右場所□(不明)、一統稠敷相働き候に付、七ツ時仕上げ(略)」という運びになった(長井手永大庄屋文書天保五年「午御用日記」四月一日~四月十二日の条)。この池の築造によって設けられた引高は、本田畠一一石九斗六合一勺、新田畠三斗八升七合六勺の池成三ケ二引である。ただ、工事期間があまりにも短いことから、元々なにがしかの溜池があったのを拡張した可能性が高い(第36図参照)。
第36図 大谷池(光冨区)
節丸村椎木池
天保三年(一八三二)十二月十二日郡奉行小出段蔵より仲津郡大庄屋中に宛てて「先達て引き取り前申し入れ置き候節丸池所見分これ有り候や、何卒寒さ相成らざる内見分これ有りたく、夫積もり其外井樋の寸合迄くわしく治定の所承りたく候、兎角物事つきやりに相成らず候様致したく候(略)」(国作手永大庄屋文書天保三年「辰日記」十一月十四日条)とあり、天保三年の暮れ近くから、その築造の準備を始めたことをうかがうことができる。また天保五年(一八三四)四月一日から二日にかけて、節丸村椎木池と光冨村大谷池に、仲津郡の大庄屋・子供役中と一手永から庄屋二人が立ち会い、手永ごとに夫割り、丁場割りを行っている。椎木池の普請も郡普請で、元永・節丸手永の担当となり、大谷池が雨天のために着工を順延したのとは違い、命じられたとおり四月七日に取り掛かったようである(長井手永大庄屋文書天保五年「午御用日記」四月一日~四月十二日の条)。また椎木池本体の築造工事とは別に、溝掘りの工事なども行われたが、工事に必要な人夫の数は三三七人と見積もられている。(同前史料四月十六日の条)。この年から、節丸村に本田畠十石六斗五升三合、新田畠四升三合七勺の池成三ケ二引が設けられていることから、天保五年に完成したのは間違いない(第37図参照)。
第37図 椎木池(節丸区)
現在は使われていない。
節丸村後野池
貞享二年(一六八五)に本田畠二斗二升七勺、新田畠四升六合五勺が池成引として設けられていることから、この年に、新たに築造したか、あるいは元々あった溜池の拡張をしたものと思われる。
なお、新池を築造する場合の審査は、まず池と成る田畑の面積や年貢高を記した帳面を二部作成し、また田畠面積、畦数などを水帳に記されているとおりに書き写した図面を添えて申請する。そして、郡奉行、代官、検見役人が出向いて見分し、水帳とつき合わせて築造の指示を行った。引高は池が出来あがった上で決めていた。
⑤田成畠減物成引
なにがしかの理由によって農業用水を引けなくなった田地を畠として利用する場合、帳簿(水帳)上は田のままで、上田なら上畠に、下田ならば下畠の物成を納めさせ、両者の物成の差額を「田成畠減物成引」とした。
⑥春免引
年貢率が、その村の現況に不釣り合いで、年貢の負担に耐えられなくなった際に設けられた引高で、四ツ高に特定の率を掛けて算出された。その始まりの時期には諸説があるが、いずれの説も十七世紀の中期~後期という点では一致している。春免引も他の引高同様、永引と当引があって、史料では前者が「前々春免引」後者が「当春免引」と表記されている。
⑧惣庄屋作方役米引
惣庄屋とは大庄屋のことで、細川氏支配のころから小笠原氏が入国してしばらくはこう呼ばれていた。本来は大庄屋の所有地にかかる年貢の内、薪・夫柄米を免除したらしいが、大庄屋の世襲制が崩れるに及んで、持高の多少にかかわらず、手永ごとに固定した引高を設け、大庄屋交替の際にはこれを引き継いだ。節丸手永の場合は、二石二斗五升八合九勺である。
⑨検見引
風・水・干・蝗害による被害で、例年どおりの年貢量を納められそうにない村は、藩に対して米の収穫量の調査を願い出し、もし、一定量より少なかった場合は、その分を年貢から差し引いた。この収穫量の調査を「検見」と言い、それによって設けられた引高を「検見引」と言った。
検見には三つの段階があった。すなわち、庄屋・方頭・組頭・頭百姓の立ち会いのもとで行う「下見」→郡手代・大庄屋・子供役による「中見」→そして最終段階として、一郡に四人の検見役・郡奉行・代官による「上見」を受け、具体的に検見引の高を決定した。