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新田畠について

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小笠原忠真が細川氏から引き継いだ石高は一九万八八七〇石六斗四升八合であったが、幕府からの表向きの拝領高は一五万石で、この分を本田畑とし、残りの四万八八七〇石六斗四升八合はすべて新田畠とした。ただ、この分の新田畠は名目上だけで、実際には本田畠、新田畠の区別は無かった。これは幕府からの拝領高一五万石に合わせて、表向きに一五万石以外を新田畠と称したまでのことである。
 この名目上の新田畠ではなく、小笠原氏入国後に開発され、調査が行われて新田畠として登録されたものがある。特に、万治(一六五八―六一)、寛文(一六六一―七三)、延宝(一六七三―八一)、宝永(一七〇四―一一)、元文(一七三六―七一)、寛政(一七八九―一八〇一)、享和(一八〇一―〇四)、文化(一八〇四―一八)、文政(一八一八―三〇)、天保(一八三〇―四四)、安政(一八五四―六〇)の各年間には詳細な調査が行われたという。小笠原氏入国後に開発された新田畠の検地は、細川氏がかつて行った検地同様に、六尺五寸を一間として行った。地位は本田畠と同じく田畠ともに上々~下々の五段階を設け、石盛も本田畠と同じであった。また年貢の計算方法も本田畠と同じであるが、土木工事などに使われる夫役米などは免除された。新田畠は、年貢率(免)と、新田畠となる以前の地位などの別から、次のとおり種類分けされる。
 
 ①永荒新地・当荒新地
 この新地は田川郡にのみあるのであるが、具体的な性格については、明らかにされていない。ここでは、「郡方大意」(永沼文書一)の説明を引用するのみにする。
 
 永荒新地=「永荒新地と云ハ古来新地御改之節永荒帳ニ(「載」脱カ)故也」
 当荒新地=「当荒新地は古新地御改之節一年荒ニ相立当荒帳ニ載」
 
 ②本免新地・半免新地・三ケ二新地・三ケ一新地
 本免新地は、その村の本田畠の免(本免)を乗じて年貢を算出する新地で、半免、三ケ二、三ケ一のそれぞれは、本免の二分の一、三分の二、三分の一を乗じるものである。本免新地には六分上米(後述)が掛からないが、その他には掛かる。本免新地は、本田畠に春免引などがあった場合は、本田畠より年貢量が多くなることが考えられるが、前述のように土木工事などに使用される夫役代米が免除されるので、だいたいは、本田畠より年貢が多くなることはないという。
 
 ③見掛新地
 新開の田畠に、五年から十五年の鍬下年季を設定して、少額の年貢(下々田の石盛に半免を掛ける)を納めさせた新田畠のことである。
 
 ④畠成田新地
 農業用水の確保が容易になったことなどから、畠を田に変換することになった場合、上畠なら上田に、下畠なら下田に見なした。そして、例えば上畠一反・高八斗を田に変換した時は、上田一反・高一石五斗になったものと見なす。ただ、水帳を訂正したりはせず、帳簿上はそれまでのとおり畠として扱い、上田と上畠との差、すなわち(一石五斗―八斗=)七斗を新地として登録したのである。これを畠成田新地といった。逆に田を畠にした場合の取り扱いについては、前述の「田成畠減物成引」を参照してもらいたい。