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二朱五厘米

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宿場に農民を動員し、人馬継ぎ立ての役につかせる課役を幕領などでは「助郷役」といった。小倉小笠原藩では、特に小倉~大里間は九州諸大名や幕府の公用人の通行が多いのだが、当初はすべて企救郡のみの夫役負担であった。しかし、貞享五年(一六八八、九月三十日元禄と改元)より、藩内六郡全体で負担することになり、「百人夫」と呼ばれる常設の助郷役に当たるものを置いて対処した。これらの費用として、この二朱五厘米を六郡全体から取り立てたのである(第61表参照)。四ツ高に二・五%(二朱五厘)を乗じた高で代米納するのであるが、貞享五年(元禄元年)に設けられた当初は、四ツ高に二朱(二%)を乗じた高を上納していたとも言われ、名称も「小倉・大里夫米」と言った。元々この夫米は企救郡奉行所へ集め百人夫の給米などに充てられていたが、明和八年(一七七一)に改法があり、六郡ともに郡土蔵へ集め「夫遣方」という役職を設けて、それが百人夫を遣うようになった。ただ、百人夫を設けて以後も、道橋の工事などに使う杭・竹・縄・菰などは郡割りで負担した。
第61表 節丸手永二朱五厘米
(単位:石)
村 名二朱五厘米
吉 岡0.4049
上 原0.9330
光 冨2.2462
節 丸2.9822
犬 丸1.0541
内 垣1.0436
末 江0.6768
下高屋0.6231
上高屋2.0831
木井馬場2.0539
横 瀬1.3555
下伊良原1.2581
上伊良原1.6045
扇 谷0.0371
帆 柱0.1743
合 計18.5304
「嘉永元年仲津郡村々申諸取立本帳」
(勢島文書90)