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銀小物成

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これも反別麦と同じく、細川氏の治世のころに設けられた雑税で、小笠原藩が改正を加えながら引き継いだものである。山・川などからあがる諸種の利益に対して課せられた運上銀であり、その種類は極めて多いが、節丸手永の場合は、第64表のとおりである。
第64表 節丸手永銀小物成(単位:匁)
村 名鉄砲札投網札雉子網札左手札筌 札焼炭札松 札合 計
吉 岡
上 原
光 冨2.02.0
節 丸10.08.01.219.2
犬 丸5.02.04.011.0
内 垣
末 江
下高屋
上高屋10.010.0
木井馬場
横 瀬5.05.0
下伊良原10.04.02.41.28.025.6
上伊良原10.08.01.519.5
扇 谷
帆 柱10.01.511.5
合 計60.016.04.02.42.416.03.0113.8
「嘉永元年仲津郡村々申諸取立本帳」(勢島文書90)

 銀小物成の中で、その額が大きいのは、薪札代である。小笠原氏が入国した当初は、領内のすべての山林は藩有林であった。したがって、農民は農地の肥料などに必要な草木を官有林から求めなければならなかった。藩はこのことで山林が乱伐されることを防ぐ意味から、馬札、歩行札を与え、その運上銀を取り立てた。その札には、一枚当たりの運上銀の額によって、三匁、一匁五分、二匁、一匁、五分の五種類があった。
 しかし、時が経つにつれ、次第に札を請けた者だけでなく、そうでない者も山林に入り込んで草木を刈り取り、運上は高割、軒割で納めるようになったため、村の規模と運上の多少が釣り合わなくなった。そこで、元禄十五年(一七〇二)に以下のとおりの改正が加えられた。①四ツ高一〇〇石に一匁五分の馬札三枚、七分の歩行札六枚を与える、②漁村などのため無高の村には一〇軒に七分の歩行札を五枚ずつ与える、③一村に一枚の「大木札」を与える。この改正によって、薪札代の徴収高は増加し、それまで上納していた分は本土蔵(藩庫)へ、増加した分は郡土蔵(郡代の管理する倉庫)に納めることとなった。薪札代は、その後何回かの改正がなされ、上納額も増減したが、元文年間(一七三六―四一)から定額上納されるようになったという。節丸手永では二九〇匁四分八厘あるいは三〇四匁六分五厘で固定している。
 農民が刀や鉄砲を持つことは原則として許されなかったが、狩猟用の鉄砲は、許可を得て鉄砲札を所持すれば持つことが出来た(このように許可を得て所持している鉄砲、あるいは所持している者を「郷筒」という)。小倉藩では元来、鉄砲札を請けると藩より鉄砲も支給され、鉄砲札の請主が替わるときは、札と鉄砲を大庄屋が一時保管し、新たに札請人が決まった際に渡したが、後には鉄砲の支給が無くなったばかりか、鉄砲札を返上する時は、自分で購入した鉄砲であっても郡代役所へ納めるようになったという。鉄砲札一枚の運上銀は貞享三年(一六八六)以前は無運上で、翌四年からは二匁、その後五匁から四匁三分に、さらにまた五匁へとその額が変わった。
 銀小物成には、この他に栗(くり)・真綿・漆の収入に対するもの、他に投網(とあみ)札、雉子(きじ)札、左手(さで)札、筌(うえ)札、焼炭札、松札、鳩網札、蟹筌札、寄網札、干見(ひみ)札などに対するものなど多数あり、農業以外の生業に免許を与えて、銀小物成を徴収する仕組みになっている。ただ、幕末になると鑑札が紛失し、誰(だれ)が免許を与えられていたのかも分からなくなって、前々からの上納額を村全体で負担するようになったものも多いという。また鳩網札、投網札は、宝永年間(一七〇四―一一)までは、数カ村に数枚あったが、その後「上ケ札」(鑑札を返上すること)が許され、運上銀も鑑札が現存している分については納めなくて良くなったが、紛失している分については、それまでどおり上納した。