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黒田氏の地方支配

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大名が領国の財政を支える基盤は、百姓からの年貢の取り立ての収入であり、そのため、年貢の徴収が確実に出来なければ、領国の経営が成り立たなかった。黒田孝高が秀吉から豊前六郡を拝領した天正十五年(一五八七)七月、領地統治にあたって三カ条の制法を発布した。その第一条は忠義、第二条は領内の安穏、第三条は隠田・畝ちがえの禁止で、領地の掌握を企図したものであった。
 黒田氏は「七月より豊前黒田殿領し検地す」(『禅源寺年代記』)とあり、検地が行われたことを記してある。高家(たけい)村、元重村(現宇佐市)の検地帳には、高家村が天正十五年八月十日、元重村が同年九月二十七日の日付になっており、入国早々に検地が行われている。検地帳には、耕地一筆ごとに字名・面積・斗代・名請人を記載した「指出検地」によって、領地の掌握を図ったのである。黒田氏の検地は、一般の検地帳に比べて石盛が低いことである。この石盛は年貢納入高であろうと考えられている。
 黒田氏の入国には、在地豪族の中に新参大名の統治を不満として、反抗する者も少なくなかった。築城郡城井谷(現築城町)に本拠を構える宇都宮鎮房や、その配下の国士の抵抗は、ひとかたならぬものがあった。黒田氏は、こうした国士を鎮圧して領内を平定していった。