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細川氏の地方支配

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細川氏も入国早々の慶長六年(一六〇一)春から領地の総検地を行った。細川氏の検地は「村々山里とも田畑のがれ無し、旁(榜)示改定」(『禅源寺年代記』)という徹底した検地で、領地を完全に掌握し、同時に地方(農村)支配を確実にするための作業を始めた(前掲第32図参照)。
 領内の村々から諸浪人、土着の旧家、百姓に至るまで、由緒書、系図など所持する者は差し出させ、その者の中から由緒ある者を惣庄屋・庄屋に取り立てた(『四日市村年代記』)。このことは、農民を掌握できるのは、農民に人望があり、そして統率力を持っているかつての在地土豪層の実力者で、彼らを村の取りまとめ役として、惣庄屋・庄屋に取り立てて、領民支配の末端組織に組み入れたものである。このことはまた、年貢請負を第一の職務に課せられた村役人には、年貢を円滑に確実に徴収できる者を選ぶことが、藩の財政を支えることになるからであった。
 慶長七年十二月には、領内各郡に郡奉行を置いた。規矩・田川郡に魚住市正・中嶋左近、京都・上毛郡に長岡肥後守(忠直)、仲津・築城郡に松井佐渡守(康之)、下毛郡に加賀山隼人、宇佐郡に長岡武蔵守(有吉立行)、国東・速見郡に魚住加賀守・杉生左兵衛が、各郡の民政全般の総括責任者として、諸事の郡用に当たった(『綿考輯録』松井文庫)。
 ところで、長岡忠直は岩石城預り、松井康之は木付城預り、有吉立行は高田城預りの重臣クラスが郡奉行で、松井康之は預りの木付城から、地理的に遠く隔てた仲津・築城郡の郡奉行である。のちの郡代・筋奉行・大庄屋・庄屋・百姓という、在地支配組織の確立されていない段階での、当初の郡奉行は、形式的な在方支配が濃厚である。実態は、惣庄屋・庄屋に取り立てた土豪層の実力者が取りしきっていたのであろう。
 その後、在方の支配体制は次第に整備されて、元和元年(一六一五)には、知行高一五〇~五〇〇石の者が、総奉行の指揮で一郡二人、あるいは隣接する二郡を二人で、実体的な在方支配が確立している(第67表参照)。