細川氏が入国して二年目に、在方支配の郡奉行が置かれた。行政区割としての「手永」の名称は、慶長八年に「松原作右衛門、麻生惣庄屋役御免にて、蟄居(ちっきょ)仰せ渡され、跡は禅源寺手永に成る」(『四日市村年代記』)とあり、同様の記事が『禅源寺年代記』にも「松原の作右衛門休役蟄居、惣庄屋麻生禅源寺手永に成る」とある。行政上の区割として設けられた「手永」の初見である。
一方慶長十六年(一六一一)の『小倉藩人畜帳』では、豊後国速見郡由布院・横灘と、木付廻の松井康之の預り地の幕府領、松井康之の知行地、蔵入地、萩原兼従(細川忠興の甥)の知行地には「捌(さばき)」が見られる。地方制が行政機構として、まだ確立されない時期の在方支配の構造である。この捌が手永と名称を変えていくのは、慶長の終わりから元和の初めごろと思われる。
豊前の地では、郡奉行の設置に伴って、手永という行政区割が創設されたと考えられる。この手永を支配する者の名称は惣庄屋である。この惣庄屋の名称は、文禄二年(一五九三)に秀吉の蔵入地(公領)の豊後国大分郡利光村や、慶長三年(一五九八)の日出(ひじ)荘に見られるが、管見の限りでは行政単位としての「手永」や「組」が見当たらない。惣庄屋=手永制度と必ずしも公式どおりには、系列化できないようである(『中津藩歴史と風土』4)としている。
これは、細川氏が小倉在城のときに創始されたとされる手永制度に伴って、惣庄屋が創設されたとする説に対する指摘である。なるほど、惣庄屋の名称は、細川氏が豊前に入国する以前に、豊後国の一部で使用されているのである。すると、慶長七年に郡奉行の設置によって、新たな農村支配をしていく上で、便利なように行政区割が設けられ、その区割を手永と称して、手永の長に惣庄屋を置いて、ここに初めて手永=惣庄屋の形式が成立したと考えられるのである。
手永の規模は、最も大きい手永は、石高で宇佐郡高森手永の九七八九石余、村数で国東郡安岐(あき)手永の二七カ村で、最も小さい手永は、下毛郡槻木(つきのき)手永の一村一手永で、石高一四四石九升である。各手永は規模の上で大小まちまちである(元和元年『小倉藩人畜改帳』)。このことは、地理、交通、給人、蔵納・知行のあり方などが作用しているようである。各手永には惣庄屋が一人おり、その名称は惣庄屋名が冠された。