仲津郡の創始時の手永は確認できないが、慶長十一年(一六〇六)二月の時点で、大村手永が存在していることが「仲津郡之内永荒開御帳之事 惣庄屋大村二(ママ)郎左衛門書上候分」山・花熊・彦徳・天生田・矢富・流末・宝山・大橋・大野井・続命院・谷田(口)の一五カ村の書き上げである。この一五カ村が、大村手永支配の村々であったと考えられる。
元和八年(一六二二)の『小倉藩人畜改帳』による仲津郡の惣庄屋は、大村二郎左衛門(大村居住)、国作善七郎(国作村居住)、伊良原二郎兵衛(下伊良原村居住)、帆柱儀左衛門(上伊良原村居住)で、この四手永の支配となっている。仲津郡の村々は、この四手永の惣庄屋によって支配されているのだが、その支配の村々は判明しない。
大村手永は元和八年に、長井村(現行橋市)居住の長井(斎藤)儀左衛門が、大村手永惣庄屋を命じられ、長井村から大村へ移住して、大村手永を長井手永と改称した、と斎藤系図にある。しかし、翌九年四月二十日付の「御理り申上候事」(『元和年中之御帳』永青文庫)には、大村二郎左衛門の奥書があり、この時点ではまだ大村二郎左衛門が惣庄屋を務めている。すると、長井儀左衛門が惣庄屋に成るのは、元和の終わりごろと推測される。
また、元永手永が設けられたことが、「文久二年戌秋冬六郡より書上」(友石文書)によって判明する。
尾形五郎兵衛
右、元永手永惣庄屋役仰せ付けられ、勤役中寛永五年、細川様より御朱印ならびに御書物頂戴仕り居り
申し候
これによると、尾形五郎兵衛(のちに苗字を西頭と改名)が、元永手永惣庄屋に任命され、寛永五年(一六二八)に御朱印、御書物を拝領したとある。
細川氏が肥後転封直前の、寛永九年十一月二十三日付の「豊前国仲津郡寛永六同七同八三ケ年之御免帳」(永青文庫)には、元永五郎兵衛・永(ママ)井儀左衛門・国作九郎左衛門・伊良原次(ママ)郎兵衛が惣庄屋となっている。元和八年時点には存在した大村・帆柱両手永は解消し、替わって長井・元永の両手永が設けられている。特に伊良原・帆柱両氏は、互いに隣接する村に居住する惣庄屋である。土豪層の実力者の惣庄屋取り立てによって生じたものであろう。これが手永支配に支障があったのか、はっきりとしないが、元和九年から寛永五年の六年間に、仲津郡の手永の編成替えが行われたのに伴う、惣庄屋の交替ではないかと考えられる。