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細川期の庄屋

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各村には、庄屋、肝煎(きもいり)あるいは山ノ口(山守)が置かれていた。『小倉藩人畜改帳』によると、庄屋の数は必ずしも一村一人とは限っていない。豊津町域の庄屋を見ても、綾野村には四人、節丸村には三人、下原と国分村には二人の庄屋がいる。庄屋が二人以上いる村には、必ず蔵納地か武士の知行地がある。このことは、「元和年中之御帳」(永青文庫)に、元和七年十二月二日付の佐知村(現大分県三光村)の佐藤山三郎殿庄屋市兵衛、横山伝次殿庄屋専了、飯田才兵衛殿庄屋忠右衛門が連名で、惣庄屋深水惣左衛門へ届け出た文書がある。それによると、三人の肩書には、それぞれ庄屋の名称が付けられてある。『小倉藩人畜改帳』によると、佐藤山三郎・横山伝次・飯田才兵衛は、佐知村に知行地を持つ家臣の名で、佐藤山三郎の知行一五〇石、横山伝次の知行二二三石余、飯田才兵衛の知行一五〇石である。
 このことから、これらの庄屋は、それぞれの家臣の知行地を管理する者であったことが知られる。したがって、村方の市兵衛は家臣の佐藤山三郎の知行地を管理し、専了は横山伝次の知行地を管理し、忠右衛門は飯田才兵衛の知行地を管理する責任者であって、村の代表、村のまとめ役の庄屋とは、本質的には異なる庄屋である。これらの庄屋のほかに、本来の村の代表、村のまとめ役の庄屋も置いていた。
 後世に見られるような、大庄屋・庄屋をはじめとする村役の、行政機構がまだ確立していない時期は、家臣の小規模な領主ともいえる知行地支配者に、年貢米を確実に納入させるのを目的に置かれた者を含めて、庄屋と称していたのであろう。このようなことから、一村に複数の庄屋が存在していた。
 当時の豊津町域一五カ村(上坂村が無いのは、当時は国分村の内で、のちに国分村から分村)の人口は、一一五五人で、石高は七二四六石余である(第65表参照)。
第65表 元和8年(1622)豊津町域の村高・家数・人口・知行・蔵納
村名村 高

人   口



知 行 ・ 蔵 納
 
国分
石 合
767,848.00

69

76

72

148

 

2
 
田辺平介・湯浅千太郎・山田七左衛門・平岡
新兵衛・山本二郎右衛門
惣社199,730.00191917361富嶋猪兵衛
国作729,434.4551674311011御蔵納
恒屋権介・中川佐左衛門・勘解由殿御内儀・
雑賀源左衛門
田中455,370.005764491131清田五郎太夫
有久194,510.00322526511村上八郎左衛門
呰見467,711.00313330631村上八郎左衛門
下原266,090.00142226482御蔵納
矢野兵吉・市野次兵衛
綾野456,219.60314637834泰岩寺
村上八郎左衛門・関小平次・香山与介・仁保
惣兵衛・恒屋権介・鈴木助太郎
徳政346,200.00385138891筑紫大膳
節丸1,201,988.807886721583住江武右衛門・沢村大学・井関伝蔵
光冨871,092.80455247991氏家源六
上原390,523.00252224461御蔵納
吉岡237,050.00555101村上八郎左衛門・筑紫大膳
彦徳329,990.80484236781佐藤安右衛門・細川清左衛門・竹原伊伴
徳永332,426.20141672311村上八郎左衛門
合計7,246,184.655576265291,155122
(『小倉藩人畜改帳』から) ※家数には牛馬屋を含む ※上坂村は国分村に含まれる