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小笠原氏の地方支配

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細川氏が肥後国へ転封のあと、小笠原氏が入国した。小倉藩の地方支配は、企救・田川・京都・仲津・築城・上毛の内の六郡となった。細川氏は転封に当たって、小倉に入封する小笠原氏に、惣庄屋について「引越ケ条」(『普請便覧附録』二)に「手永毎に設けた惣庄屋は、代官同然に役用を申し付け、知行も遣わしているので、肥後へ転封にあたって連れて行きたいが、そうすると、後任の小笠原氏の地方支配にも差し障りができるであろうから、多くの惣庄屋をそのまま残し、小笠原氏に引き渡す」(『中津藩歴史と風土』4)としている。
 小笠原氏は、細川氏の農村支配体制の「手永制」はそのまま受け継いだが、上毛郡に見られるように、山内・篠瀬(しのせ)・友枝・大ノ瀬(だいのせ)手永が、小笠原氏の入国によって、大ノ瀬手永は中津藩になったのは別として、友枝・大村・三毛門(みけかど)手永となり、山内・篠瀬両手永は廃止されている。このことは、村組の編成替えに伴う手永の改廃である。このように、全領域にわたって手永の改廃が行われたと考えられる。手永を管理する者の名称も、惣庄屋から大庄屋に変わった。仲津郡は、国作・節丸・平嶋・元永・長井の五手永の編成である(第38図参照)。
 

第38図 仲津郡の手永領域図
(『豊津藩歴史と風土』第2輯から)

 小倉藩六郡の地方支配として、郡代を一人置いた。各郡には筋奉行・代官・山奉行を置き、郡代はこれらを指揮して、郡内の民政全般を総括した。各郡には筋奉行一人、代官一人、山奉行一人を置き、筋奉行は郡の長として、郡内の大庄屋を指揮して、郡内の政務全般を総括した。
 各郡内には、おおむね一四、五カ村から二〇カ村内外、石高約一万石、戸数約二〇〇〇戸内外を一手永とした行政区割を設け、大庄屋一人、子供役一人、手代一人を置き、大庄屋は手永の長として、手永内の庄屋を監督指揮して、手永内の政務を総括した。
 各村には、庄屋一人、方頭は村内の各集落から、だいたい二五戸内外に一人、組頭は五戸に一人ずつ置いた。庄屋は村の長として、村内の政務全般にわたって総括した。