在方(村方)を支配する役人は、郡代を頂点にして、郡方三役・手永三役・村方三役によって総括されていたのであるが、在方支配で最も重要な職務として課せられていたのが、年貢の徴収であった。年貢の徴収を円滑に、しかも確実にするための支配が、どのようにして行われていたのであろうか。
藩の財政を支える収入源の基盤は、百姓からの年貢の取り立てによって、藩の経営が成り立っていたと言っても過言ではなかった。そのため、年貢の徴収が確実に、そして円滑に行われなければ、藩の経営が成り立たなかった。
藩から在方への伝達は、郡代から筋奉行へ、筋奉行から大庄屋へ、大庄屋から庄屋へ、庄屋から百姓へ伝達された。そこで、地方を円滑に支配していくための、きめ細かい心配りが必要になってくる。このきめ細かい心配りができるのは、農民による農民の支配であった。その頂点に立つのが大庄屋であった。
大庄屋の第一の職務が、年貢納入の請負であることは言うまでもない。そのため、大庄屋にふさわしい者は、由緒ある在地の名士であるとともに、農民に人望があり、そして統率力のある実力者が取り立てられた。このことは、年貢徴収を円滑に、そして確実にする上で、欠かすことのできない大庄屋の条件であった。藩では、こうした条件にかなった者を大庄屋に任命して、藩の財政の確保を図ったのである。藩では、こうした重い職務に対して、大庄屋は農民ではあるが、あらゆる面で武士待遇を与えた。大庄屋では、その子息が元服するころから父の仕事を手伝い、世襲制ではないが、実態は世襲のような形になっていた。
大庄屋の下には、子供役・手代が大庄屋を補佐して、村々を支配していく。村々には庄屋の下に、方頭が庄屋を補佐して村々をまとめた。末端の百姓には、強制的に五戸ごとに一つの組をこしらえて、村中一人も残らずこれに組み入れた。これを五人組と称した。五人組の長に組頭を置いて、組内の相互間の連帯責任制のもとに統制されていた。